大北地区、井上垣内の廃寺大雄寺(大庵寺とも呼ばれている)で8月20日(日曜日)、毎年恒例の供養が行われた。廃寺大雄寺は、大北自治会の管理となっている、境内には児童公園の案内版もみえる。 境内は児童公園となっているので、草刈は子供会で数日前に行なわれたと、自治会長におしてもらった。
9時前大北自治会の関係者が三々五々集まり9時には全員集合。お堂は古く、戸は壊れいるのか、お堂全体が封印された状態にある、(以前は扉が開放され、中に供物が置かれて、供養が行われた)、お堂の階段最上段に供物が置かれ、階段下の両脇に供花が1個宛と、線香が立てられ、蝋燭の灯が風に揺れている、近づくと線香の香りが漂う。境内の石仏にも供花が立てられ、蝋燭と線香が供えられ、線香の煙が漂ってくる。
暫くして法楽寺住職が来寺、読経の前に必要な仏具を準備、自治会三役は住職の後に、役員はその後に半円に集まり、住職の読経を見守る。
読経が終わると、自治会長を先頭に参加者全員、焼香が行われた。その後、観音様、馬頭観音様の2個所で般若心経が唱えられ、供養は終了した。かんかん照りの中でのおつとめ、自治会長、役員の皆様お疲れ様でした。
「大雄寺」は何時頃から「大庵寺」と呼ばれたのだろうか、享保17年(1732)の井上文書に見られるのが初見で、本格的に「大庵寺」と呼ばれだしたのは明治以降と考えられる。
大庵垣内にも、その昔、お寺があったと、地元では伝承されているが、詳細は不明。当時、高山を知行していた「堀田紀一定公」の戒名は「大安全切」となっている、私考であるが大庵垣内にも「大安寺」或いは「大庵寺」と云う名の寺があったのではないだろうか。
同じく「堀田紀一仲公」の戒名は「大雄智箭」であり、「大雄」と寺の二字が見える、また、お稲荷さんの燈籠にも「一忠公」が見られることから、私見であるが、「一仲公」の大雄寺に対する貢献度が非常に大きかったことが窺える。
一般的に、お寺の総代や役員を長期間に渡り勤めた場合や、お寺に多額の寄附をした場合等、戒名に「院」、以外に、お寺の文字が使われることが良くあります。
廃寺大雄寺の本尊は、木像地蔵菩薩立像で、大きさは2尺5寸、台座を入れると5尺3寸(約160cm)、と寺の什物に、記載されてるところから、本尊は立派な仏像であったことが窺える、残念ながら昭和51年に盗難に遭遇、現在は行方不明である。台座には「文政5午歳正月吉日本尊前立臺」(1822)の銘があり、仏像はそれ以前に造られたことが窺える。
明和5年の有井山文書に、「禅宗和州片岡村徳雲寺末寺大雄寺境内除地 東西15間、南北20間」(一反)と誌されている、この事から広い境内であったことが判る。文献がないので定かではないが、広い境内には建造物が多くあったのではないだろうか。
住職がお見えになるまでに屋根瓦の銘を確認したところ、観音様の祠の瓦には「高山 森岡 安早」と「高瓦房」の銘が見つかった。前者の屋号は「森岡」で後者は「どびや」である、いずれも明治頃に瓦を焼いていたことが、生駒市誌に紹介されている。現在、両家の末柄は地元には住んでいないので詳細はわからない、瓦の銘から、祠は明治以降に建立されたことが窺える。
災害で崩壊した庫裡に、使われていたと思われる棟瓦にも「高瓦房」の銘が見つかった。庫裡は明治以降に屋根瓦に修覆されたか、新しく建立されたかのどちらかであると考えられるが、棟瓦の形状をみると、京箱形式を使用しているので庫裡は太い棟木ではなかった考えられる、とすれば葛屋根を瓦に修復したと私考する。
最後に、行事の内容を撮らせていただくよう、当地区の自治会長にお願いしたところ、快くお許しを頂きました。心より御礼申し上げます。
参考文献
生駒市誌、有井山家文書、井上家文書、寛政重脩諸家譜、向露寺文書