自然と歴史
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古道(黒添池-タナダ川周辺)


交野市寺の住吉神社からカイガケの道を登り詰めると大阪府民の森に着く。

 昔、寺村(現、交野市寺)の親戚に招かれ、沢山のご馳走とお酒をよばれ、帰る頃にはすっかり日が暮れてしまった。
裏藪にあった黐の幼木を「おうこ」の前に、ご馳走を「畚」に入れ、後に吊し、すたこらすたこら、カイガケの道を登り、現在の府民の森付近にさしかかった時は、すっかり夜も更けてしまった、なにやら後の荷物が重く、引っ張られる感じがする、後ろを振り返り提灯で照らすも何も見えない、暫くは何事も無いが、又後から引っ張られる、何度か繰り返すので、腰を下ろし、休憩していると、暗がりの向こうに微かな灯りが見える、「さては、化かしに、きよったか」と、言いながらご馳走の一部くれてやった。この付近には、昔から狐が住んでおって、旅人にいたずらすると聞いている、急いで前後の荷物を入れ替え、その場を急いで立ち去る。
黒添池にたどりついた頃には、追って来る物はいなかった。そのとき持ち帰った黐の幼木は幾多の歴史を見聞きしたであろう、今は大木になって庭で静かに余生を送っている。と古老から聞いた事がある。
 
府民の森の中を通り、生駒市獅子が丘住宅街の西端にでる、坂道を下ると、木々の茂る森に入り、森を抜ける頃、小さい池に出会う、「アミジョ池」と地元では呼んでいる。
獅子が丘が、開発されるまでは、奇麗な水であふれ、水深は判らないが、池の底が広がり神秘な池に見えてた。
元々此所には、安明寺川があり、池の水は、黒添池への取り水とするため、川をせき止め安明寺池を造ったとされる、此所には「安明寺」というお寺があったことが、有井山家文書黒添池改修工事図面(明和5年1768)に見える。

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                かいがけの道(奈良県側)

 
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                  安明寺池(アミジョイケ)


「安明寺」についての文献は見つかっていないが、有山日記、大正4年10月19日と11月8日の項に「庵(安)明寺 まったけがり」とある。
寺の名が地名として残り、此所に寺があったことを物語っている。
(余談になるが、後の行に、「まったけは一貫目ほど取れた」とある、今から考えるとうらやましい話)

アミジョ池を過ぎると黒添池にでる。この池の歴史は有井山家文書に残されおり、図は、明和5年の黒添池改修  工事を、表したもので地区毎に、工事日程が決められている。
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               明和5年の黒添池改修工事日程計画


e0085845_16341077.jpg黒添池が完成するまで経緯は次の通りである。
寛永元年(1624) 築造工事着手、同2年工事竣工
宝永2年(1705) 黒添池はもと黒藏池と広称せり
東西205間(373m)、南北48間(87m)
享保17年(1732)「池面拡張の必要により池添なる字九頭神住百姓 嘉兵衛の田地を開掘したるに付き、
その代地として棚田川口の除地を合い渡す。」
元文3年(1738)黒添池並川添堤普請
明和5年7月14日(1768)大改修工事着手、
享和3年(1803)工事竣工。 (生駒市歴史年表より)






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旧道は看板辺りを下りた(現在は工場の敷地 通れない)


天保14年の絵図によると、黑添池を過ぎると「大谷道」に入る、旧道路沿いには畑等が耕筰されていたが、今は廃道となって通れない、現在は黒添池を過ぎると、大きく右に折れその先で左に曲がる。
直進すると道はタナダ川に突き当たり右に折れる。川向こうの森は「高山城跡」右手には向露寺が見える。絵図では、向露寺入り口付近で橋を渡り、東側の川添の道を、富雄川合流地点まで続いていた。現在その道はないが、部分的に昔の面影を残こしている。

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             現在のタナダ川 護岸工事が行われ昔の面影は無い


向露寺駐車場から川向こうの地域を、天保14年の絵図では「墓ノ谷(はかんたん)」となっており、本願寺文書や有井山家文書から文化年間には集落が形成されていたことが判明している。
私の考えであるが、「墓ノ谷」の由来は「向露寺」が開墓された以後、墓地の前の谷なので、呼ばれる様になったのではないか?。とするれば元禄時代以降の字名と考えられる。


 タナダ川(棚田川)の源は、黒添池に始まり、富雄川に合流するまでの1kmにも満たない短い川であり、流れ込む水は「みつわり」「大廣(おびろ)」「竜王山」等の谷であったろうと思われる。現在は大廣谷の大廣川のみ残っている。
 現在の大廣川流域には「大八丁池」「新池」などの大きな池が見られるが、元禄14年の絵図にはない、井上文書「高山村社堂建立修復々中諸事年代記」(明治5年)には記載されている。大廣川は現在も水量多く清らかな水が流れている。
大廣谷の入り口の碑には「道路改修紀念碑」裏側に「昭和9年3月、自大廣橋至新池 大廣地主連中建之」と彫られている。他に地主の名が多数刻まれている。

戦後大八丁池の西岸に岩場が有り、大八丁池の上の池から水を引いて、西光寺住職等が、23日のオダイッサンの日に滝行が、行われていたと云われている。参加した人達は、すべて他界しているので詳細は不明,聞く所によると、地元以外の信者が、多数いた聞く。
また、当時岩場には延命観音が祀られいた伝承があり、その延命観音は理由不詳だが現在向露寺に安置されいる。
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                  大廣谷  左見えるのが大廣川 


 現在、大廣川とタナダ川の合流点から、富雄川までの間、道路拡張のため、暗渠になっている。道路拡張前には二つの橋が有り、地元では、本願寺から来る橋を「地獄橋」、富雄川合流付近の橋をを「タンダ橋」と呼んでいる。しかし、天保14年の絵図には「地獄橋」は見当たらない、その当時の道は、棚田川の東側を通っており、向露寺付近まで橋はない。但し大廣橋という大廣谷に入る橋はあった、向露寺付近の橋を地獄橋と言うのだろうか?、それとも近代になって呼ばれる様になったのか?定かでない。

享保17年(1732)「黒添池拡張工事に於いて、棚田川口の除地を合い渡す」とあるのは棚田川と富雄川の合流付近であろうか。
タンダ橋は、寛政9年(1797)の有井山家文書「添証文の事」に「たん田」と言う地名が出てくる、この付近に架かる橋なので「たん田橋」と呼ばれたのでは、或いは「タンダ橋」は「タナダ」の「ナ」が訛って「ン」になったとも考えられる。由来に関する文献がなく、定かではないが、「たん田」という地名は江戸後期の古文書に散見する。

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         タナダ川と富雄川の合流点 (手前がタナダ川 向こう側が富雄川)


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            タンダ橋付近 (暗渠になっているため昔の面影は無い)



向露寺墓地の由緒は有井山家文書「和州添下郡高山村御墓所由来」に、
上分之墓(向露寺墓地のこと)
此の墓は本願寺山墓地、円楽寺山墓地を、高山字西車谷に墓移した、開基は和州片岡山(現 奈良県生駒郡王寺町)達磨寺、珠岩和尚で供養は元禄2年2月15日。と記載されている。
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                  向露寺と後に向露寺墓地が見える


 向露寺にはこれ以外に3通の由緒が残っている、いずれも明治以降の作成である、交野市史に紹介されているは、3通の内の一通である。
埋葬方法が、火葬から土葬に改葬されたこと、向露寺の建物が、傍示の向露寺谷から、移転したこと以外は、御墓所由来と同じ。
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                  和州添下郡高山村御墓所由来の一部



 珠岩和尚は、大北地区、大雄寺を開山した人でもあり、位牌及び石碑は大雄寺にある。位牌には「臨済正傳第35世當寺開山珠岩寳老和尚覚位」とあり、石碑には「當寺開山珠岩宝老和尚也」と刻まれている、向露寺文書には「開山向蓮社西譽善宗大徳」と記載され石碑、位牌はない。「善宗」は「禅宗」であろうか?。
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                大庵寺にある珠岩和尚の石碑



 太田勘右衛門の伝承について
「太田勘右衛門」は本願寺墓地近くに、住居があり、火葬場の燻煙に悩まされ、難儀していた、そこで墓地を移転すれば、燻煙から逃れると考え、墓地の土地を寄附した。と伝承されている。
現在「太田勘右衛門」家の家系は、途絶え墓地は荒廃し、無縁墓になるも、墓参の形跡ある。現在墓地の石碑は総て撤去され墓石のみである。

太田勘右衛門については、法楽寺文書「譲状之事(正徳6年1716)」に「証人 本願寺旦那 太田勘右衛門」と署名捺印した状が残っている。この頃、実在した人物で本願寺の檀家でもあった。
向露寺所蔵の由緒に、建物は傍示の向露寺谷より移転とある。
傍示地区に、向露寺の名が付く字名は、地図上に見当たらないが、由緒の内容から、その場所は「尺地」付近ではないかと想像する。
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 太田勘右衛門の墓地(今はこれらの石碑総て撤去されて石柱のみとなっている)


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               太田勘右衛門のサインと押印のある状


 向露寺の語源を、辞書で調べると、「骸(ムクロ)」又は「ムクロジ」という植物名が出てくる。
 「骸」とは首が無い遺体等が捨てられる場所、と説明されている。
お寺の名前としては考えられるが、少し違和感がある。
「ムクロジ」は本州(新潟、茨城以南)に生息する落葉高木、昔から寺社境内に植えられ、実は黒く堅い、羽子板のはねや数珠玉等に利用された。

お釈迦様の言葉に「もし、煩悩、業区を滅ぼし去ろうと欲するなら、ムクロジの実、百八個を貫き通して輪を作り・・・」伝々とある。
(「ムクロジ」を中国では「無患子、木患子、苦患樹、油患子」と表されています、日本の本草学者が間違って「木患子」を「モクゲンジ」に充ててしまった事が知られている。)

 私の考えでは、傍示の向露寺谷は「ムクロジ」なる植物の生息地で「ムクロジ」変じて「向露寺」となり地名になった。「向露寺」なる寺が存在していたとは考えがたい。
もし寺が存在していたなら木の名前が寺の名前になったとも考えられる。ただ、「ムクロジ」が「向露寺」への成り立ちは判らない。

 向露寺の川向こうの森には「高山城跡」があり地元では「城山」、タナダ川の上流の谷を「茶屋が谷」と呼んでいる。

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                  この道を進むと茶屋ヶ谷はいる


これらは、法楽寺文書「本願寺玄海律師後任に付」(元禄6年1693)と言う相続に関する状に「城山」「茶屋が谷」の字名が出てくる。元禄時代には、すでに地名として、一般化されていたのであろう。

高山氏の没落(天正5年、1577)後、本願寺から「城の茶屋」迄の峰続きの土地は、本願寺の領地であったと考えられ、高山氏の菩提寺は、円楽寺と云われているが、家臣や家来達の墓地は、本願寺ではなかったか。今後の調査に期待する。

 大廣谷北方の、小高い丘の集落が、逢坂(おざか)と呼ばれている。その後に聳えるのが「竜王山」、高山で一番高く高山地域全体を見渡せる位置にあり、わき出る水をせき止め造られたのが「竜王池」、天保14年の絵図にはすでに描かれている。余談になるが「竜王池」の近くに、高山溜池から、送水される水路「西幹線」が、通っている事も付け加えておく。

 「高田照世著 祖霊と精霊の祭場書」の一部を引用させてもらうと、竜王山は高山八幡宮の宮山であり、宮山には八大龍王が祀られ、水の神、雨乞の神とされている、旱魃時には、八大龍王から灯明を持ち帰り、祈願すると云う雨乞儀礼が行われた。祠の前には灯籠が有り「鹿守山八大龍王御宝前六月朔日、高山村、貞享五戊辰年(1688)和劦」と書かれている。(劦=州)
 鹿守山という公称は、竜王山の入り口に当たる地区が、坂の向こうは、神の領域である事を示す、逢坂という地名を持つこと、又むやみに、龍王山に近づいてはならないと、子供の頃諫められたという地元の伝承から、此の山が、いかに神聖視されていたかが察せられる、水を司る蛇神が、山に棲まうという、原初的な聖地信仰と仏教が集合し、この山中に八大龍王を祀り、竜王山と、称するようになった。
 宮山は5年に一度サイメンアラタメ(境界杭の確認)が現在も行われていると聞く。祠の場所については不明である。

参考文献
 生駒の古道、生駒市誌(有山日記)、法楽寺文書、 生駒市古文書調査報告書、有井山家文書、
 向露寺文書、井上家文書、「祖霊と聖霊の祭場」 高田照世著 岩田書院、
 「原色日本植物図鑑」 北村四郎・村田源著 保育社、ウイキペディア(ムクロジ)等、
 高山文化研究会資料(天保14年絵図)、北倭村風俗誌調、
生駒の歴史と文化(ハンドブック)、  星宿 第7号 朝日カルチャーセンター発行、

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by kwsan | 2016-02-16 16:46 | 歴史 | Comments(0)