自然と歴史
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古道(高谷集落付近)

生駒民俗会発行の「生駒の古道」高山・伊勢街道を歩きその土地の歴史を振り返る。


 向谷から「笹見谷」を抜け「坊殿(ぼうどん)」を後にして市道65号線を渡り左へおれる、暫く進と三叉路に石橋が架かっている(よく見ないと見落とす)、石橋はがっちりとした大きい延べ石で造られ、随分と長い年月、多くの人を見送って来たのだろう、橋の表面がなめらかである。 橋を渡らず真っ直ぐは、精華町東畑、京田辺市打田方面への旧道、現在は途中で市道65線に接続。

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            東畑、打田方面の旧道

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              石橋を渡り向こうが高谷集落

 この付近には「池之内」「十護寺」なる小字が存在。現在は山や田畠になっている。
 「池之内」の地名は延久2年(1070)興福寺雑役免帳に見られる、この頃すでに集落が存在していたと思われる、周辺の旧家の過去帳には「池之内」から移転と記載、過去帳は元禄時代から始まっているので、約300年以前にすでに集落があったことは事実である。
「十護寺」についての伝承はないが、寺院があったのではないだろうか。集落のある所には寺院があっても不思議ではない。


 橋を渡り緩やかな坂道を登りきると、高谷(たかだん)集落の入り口である。
「高山惣絵図」によると、高山八幡宮の北側にある谷で大門村に「字高谷」と言う地名が認められる。又、天保14年の絵図には、向谷を通って高谷集落を通り抜け、次の集落への道も記載されている。


 高谷の地名は法楽寺文書「覚書綴」慶安元年(1648)にすでに現れている。それには以下のように記載されている。


 1.高谷田8町仕候年慶安元戊子年仕候、堤ハ惣中合力、田普請   ハ我等仕候、手間前後二百仁、今年米弐石三斗作申候、


 要約すると、高谷集落の八町の水田は慶安元年に開発し、堤は村中で力合わせ築き、田の普請も我々が行い、のべ200人の手間を掛け、今年(慶安元年)に完成した、その結果米二石三斗の収穫があった。又、この後の文章に宮方の田地普請、築堤も高谷の人達が工事に関与したと記載している。


 集落の道を下って行くと、その先は人家の庭先から畑の畦道に続いている、通るには持ち主の了解も必要だろう。それに近年猪がこの辺りをウロウロしているので注意と持ち主は言っていた。

 畦道を過ぎると山道になり、落ち葉が道一面に積もり山の香を残す。道は昇り坂になり、頂上は三叉路でこれを越えると次の集落に入る。頂上付近は高谷集落と隣の集落との境界になっている。


 高谷との境界付近には平成20年頃迄オダイッサンの祠があった、現在、祠はなく瓦や木材が散乱し、土台の延べ石のみが残って、落ち葉が歴史を封印しているかのようである。
持ち主(奈良市在住)の話によるとオダイッサンは木造座像で、痛んで正常な姿ではないが祀っているとのこと。
又このオダイッサンは、明治34年頃に高山で始まった「高山新88ヶ所 52番札所 中村の峯」となっている。最盛期の3月21日には沢山のお参りがあり持ち主が、お菓子やおはぎを提供して接待したと聞いている。
祠は何時頃造られたのかは不詳であるが、「高山新88ヶ所」を考えると明治30年頃の建造ではないだろうか。

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             オダイッサンの祠跡

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              祠に使用されていた鬼瓦

 近くに愛宕山の灯籠が立っている、建立目的は不詳である、その横には小さな石碑が3体列んでいる。灯籠には榊が御供えされ、火袋には愛宕山神社の札が納められている、灯籠に刻まれた文字は解読出来なかったが「○永3午○ 12月10日」と読める所から「安永3午年(1774)12月10日」と考えられる。灯籠と石碑は別の場所で祀られていたが、30年ほど前この場所に移動したと地元の人から聞いた。

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          愛宕サンの灯籠と3体の地蔵さん


 高谷集落の小字長谷には、昔から太い蛇が住んでいるとの伝承がある、人間に危害を加える事は無く、静かに高谷集落を守る地主神ではなかろうか。


 金刀比羅社は高谷と東大門の垣内47軒で祭祀しており、祭祀は9月1日、以前は垣内の山中で祀っていたが、何時の時代か判らないが八幡宮の境内に移転した。当時は木造で大きな社であったが壊れてきたので、その後コンクリートで社は造られた。
地元の人に祭祀の理由を聞くと「高谷の住民が水難に遭わないため」と聞く

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              八幡宮に祀られている金刀比羅社

 個人的な意見であるが、古文書に高谷の水田は地元で開発したが、長年に亘って、水難に遭遇してきたので神仏習合の神として「金毘羅大権現」を祀ったのではないか。明治元年になって「神仏判然令」が発せられ廃仏毀釈という過激な神仏分離が起こり「金刀比羅社」に名を変え八幡宮に移転した思われる。
 辞書によると「金比羅」はガンジス川の鰐(ワニ)が神格化されて仏教の守護神となったもので魚身で蛇の形をし、尾に宝珠を持つ「宮毘羅」(クビラ)で薬師如来の十二神将の一つであると言われている。
 推測であるが、「金刀比羅社」は伝承の蛇に関連があり、その付近に祠があったのではないだろうか。


 
参考文献 
生駒市誌、生駒市古文書調査報告書、法楽寺文書、天保14年の絵図
地域的霊場の成立と展開 津浦和久著、祖霊と精霊の祭場 高田照世著


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by kwsan | 2016-01-20 16:26 | 歴史 | Comments(0)