自然と歴史
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向谷集落周辺


生駒民俗会発行の「生駒の古道」高山・伊勢街道を歩きその土地の歴史を振り返る。


 白岩橋を右に見て市道7号線を渡ると「向谷集落」である。その境界付近には毎年正月と秋祭りには「御神燈」なる提灯が立てる風習が残っており提灯の立つ向こう側は向谷集落と考えられる。
「向谷」の地名は古く法楽寺文書 「公儀御法度条目3通請書(貞享4年1687)」に見られる。

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        提灯の向こうは向谷集落 橋は美の原川に架かる橋



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              上記写真の同じ場所


 本願寺には「輿入用代銀弐百卅五匁」「元文六幸酉年(1741)」「念仏講什物同行十四人」「三月吉日」と墨書きされた大きな箱の蓋(1070×1020の一枚板)が残されている。
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             念仏講の道具入、箱の蓋の裏

箱からは古文書が見つかりそれには「倹約申合覚書 向谷垣内」文末には「文政元年(1818)庄田村中」とある。

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                倹約申合覚書 末頁

 この頃の高山村には、傍示、庄田、大北、大門、久保、中、宮方、芝の八垣内が存在した、これらの垣内は、地縁的な強い結びつきを有しており「村中」として申し合わせを行う事もあった、文政元年に「壱拾カ年間倹約」すべき事項を申し合わせている「倹約申合覚書」はその1例と、生駒市古文書調査報告書に記載されている。
他に「念仏講かけぜん覚帳」などが見つかっている、本願寺過去帳に向谷の檀家は16軒となっており、念仏講の同行14人とほぼ合致する。
 本願寺什物に「文化14年丁丑年11月朔日 細工向谷仲右ヱ門」と蓋の裏に墨書きされた仏涅槃図を入れる箱もある。
以上のことから向谷集落全体は本願寺との関わりは強く、古くから関わっていたと考えられる。地元の人に依ると「最近まで向谷念仏講の道具が必要な時、本願寺へ引き取りに行った」と云っていた。



美の原川の橋を渡ると急な登り坂から緩やかな道になる、目の前に大きな木が茂る森が見えてくる、某保険会社社長の生誕地である。道路は四叉路にさしかかり東南の角に灯籠が建っているのが見える、立てられたのは不明だが、道案内のために建てられたものだろう。「生駒の古道」には小森畑の伊勢灯籠と紹介されている。
 この辻を左へ進と頂上には「しるし墓」がありこの付近が向谷との境界でこれを越えると「小森畑集落」に入る。この地名も古く「元禄3年(1690)の八幡宮棟札に「子守(小森畑)」と出てくる。小森畑には有井山家、冨田家等の近世に活躍した人物の子孫も健在であり一時期有井山家文書から有井山家地内に陣屋が置かれていたことが判明している。

現在は向谷と小森畑を一緒にして「南垣内」という自治形態を取っている。

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                  灯 籠

 灯籠を見ながら急な坂道を登る、途中には竹藪が続く、この周辺には戦後暫く数件の人家がありその一軒が瓦を生産していた史実がある。その子孫は地元に住居を持たないが健在と聞いている、その瓦は地元で消費され、その一部が本願寺本堂屋根にも使用されている事が瓦に刻印された文字から判明している。
 細い道の頂上には携帯電話のアンテナが立っている、それを右に見て急な坂を下ると道は土手ぞいに続いているのが見える、遠くに「高谷集落」が望める、右手前方には竹林園の競技場がある、この谷一体を「笹見谷(ささがたん)」と呼ばれている。この周辺は竹林園が出来る前まで段々に田が連なっていた。

急な坂を下ると道は緩やかになり、右手に池が見え三叉路(はっきり判らない)にさしかかる。池の堤防を通り細い坂道を登ると竹林園、竹林園を通り抜けると富雄川に出られる。
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   笹見谷 遙かに高谷集落が見える、右手池之向こうに竹林園グランドがある

 竹林園には、戦国時代の豪族「鷹山氏」の菩提寺である円楽寺があった。
現在この墓地は法楽寺と鷹山家の家臣に依って組織されている無足人座の人々により保存されている。春に法要が法楽寺と無足人座の人々によりで行われている。

 鷹山氏の墓跡には以下のような石碑が列んでいる。
  山形名合板碑     享保2年 (1529)
  五輪塔        明応9年 (1500)頼栄
  五輪塔        永正16年(1519)頼宗
  五輪塔        天文12年(1543)?
  五輪塔        天文20年(1551)頼春
  五輪塔        天文22年(1553)弘頼禅定門
  五輪塔        天正8年 (1580)頼盛大徳
  五輪塔        貞享3年 (1680)頼茂大徳
                       妙徳大師
            (三輪氏、東大寺中興公慶上人の母)
  五輪塔        元禄16年(1703)頼忠居士
  五輪塔        享保4年 (1719)頼安居士
  五輪塔        享保9年 (1729)頼心居士
  他に無記年3基、永正残欠1基、小石仏郡が松林にあり


 円楽寺は法楽寺の末寺で、真言宗新義派 本尊は不動明王で檀家は数件であった。境内は90坪(明治九年 法楽寺文書に記載)でお寺としては余り広くはなかった、由緒については不詳。
又、円楽寺は「寺中5ヶ寺」にも含まれ、正月3日には天下安全五穀成就を祈祷し牛玉法印の祈祷札を村人に配り、八幡宮の座、「寺中座」にも含まれ八幡宮の座にも関係していた。(法楽寺文書「享保16年(1731)当地寺由来書」)。

 当時の円楽寺は鷹山氏の関与により優勢をほこっていたが元禄の頃になって鷹山氏の衰退と同時に廃寺となる、そこで公慶上人が姉の興福院教誉尼と図って、親の鷹山宇左衛門(頼茂)15回忌に際して円楽寺を修復し併せて興福院に関係する僧を住持に入れた、したがって近世の初め頃までは鷹山氏の影響はあった。

 昭和61年、生駒市の発掘調査概要によると「中世城館の存在、廃円楽寺の遺構を確認するに至っていない」とあることから、明治元年になって発せられた「神仏判然令」により廃仏毀釈と言われるような過激な神仏分離の動きが起こり(明治21年8月に毀された伝承がある)円楽寺は取り毀された。したがって現在円楽寺跡地は確認出来ていない。
                   

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           円楽寺跡の鷹山氏一族の墓跡

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                  円楽寺跡の墓石群

三叉路から田んぼ沿いの緩やかな坂道を下っていくと「坊殿」に着く、坊殿には鷹山氏の住居があったと云われている。今は薮になっているが戦後しばらくは畑や田んぼが連なっていた、川べりには井出があり九頭神川から水を引いていた、今はその井出も崩れ竹藪化している。
次回は高谷集落です。

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      坊殿 竹藪は以前田んぼや畑でした その向こうに竹林園がある

 参考資料  生駒の古道、生駒市誌、向谷念仏講資料、
       生駒市の発掘調査概要(昭和61年)、
       本願寺過去帳(俗名のみ、写)、
       生駒市古文書調査報告書、法楽寺文書、
       近代日本天台の布教理念 木内堯央著、

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by kwsan | 2016-01-11 20:53 | 歴史 | Comments(2)
Commented by Nick726 at 2016-01-20 09:44
田園風景が良いですねえ~
電柱と石灯籠のコラボに違和感を感じます
Commented by kwsan at 2016-01-20 15:30
Nick726さん、風邪気味とか体の具合はいかがですか。車社会になり殆ど通らない所になりました。
休日の天気の良い日には5~10人ぐらいの団体をよく見かけます。生駒市のハイキングルートとしてパンフレットが配布されているのもその影響でしょう。