自然と歴史
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古道 (狭戸から傍示)
生駒民俗会発行の「生駒の古道」高山・伊勢街道を歩きその土地の歴史を振り返る。
 狭戸垣内の会所から高山溜池を両方に見て北進、昔渡っていた狭戸橋が高山溜池に水没しているのが左手に見える。
狭戸橋は何時頃建設されたのは定かではないが「大和国町村誌集」に載っていることから建設は明治末頃ではないだろうか。

 山崎宮司は「狭戸」の地名について、「仁徳天皇43年に鷹飼部が定められます、河内禁野から程遠からぬ峡谷に鷹飼の山があり、山官には山守部があてられ、鷹飼の山部の里が、いつとなく鷹山といわれるようになったのではなかろうか。」背鳩(狭戸)という地名は「鷹飼の山から派生した地名と考えられる」。と書いている。
 「狭戸」の文字を確認したのは、お寺の過去帳で明和3年(1766)それ以前にも存在すると思われる。

 それを過ぎると道は二手に別れ。右は枚方市穂谷方面への旧道、真っ直ぐ行くと市道7号線との交差点にでる。右は平成20年頃に完成した道路で穂谷方面の旧道に接続している。左へは昭和40年頃獅子が丘住宅地が開発されたときに建設された道路で、現在は市道7号線となっている。
 
 交差点を渡り市道7号線を北進すると傍示の集落に入る、集落の入口右手の少し坂を上った所に生駒北小学校の分校跡がある。
 明治7年、西方寺に傍示支校が設置、その後幾多の変遷を経て、昭和9年此所に傍示分校の校舎が新築、昭和47年本校に統合されるまで分校として機能した。
この年、傍示の小学校として百余年の歴史を閉じた、その間、幾多の人材を送り出したことであろう、跡地に建つ二宮尊徳も昔を思い出しているのかのようだ。

 「傍示」の由来について山崎宮司は、「扶桑略記・寛平元年(889)12月2日の条に禁野の境界に榜示を立てたとあります」「この榜示が、いつとなく地名となります、河内の西傍示、大和の東傍示などは榜示が地名化したものです」と書いています。
又交野市史にも「傍示(西傍示)とは榜をたてて、ここが国境であることを示した事から付けられた」となっている。

 伊丹聖氏所蔵の文書に「元禄12年に、傍示の国境では大和・河内東西両傍示の村役人立会で国境を見届けた」とある。
以上のことから東傍示が現在の場所に移転して生活が始まったのは元禄時代(1688年頃)頃と推定され。

 次に見えてくるのは奈良交通バスの傍示駅終点、ここから集落を見上げると一番高い所に西方寺の一部が見える。
 西方寺は
 宗旨  融通念仏宗 
 本尊  阿弥陀如来木立像
 本堂は昭和24年に焼失
 天文舟型地蔵石仏 天文24年(1555)
 無記年舟型地蔵石仏 2基 (年代不詳)
 25周年記念顕彰碑 (本堂焼失から25周年に造られたもの)
  碑文に「人生の終わりに思う親の恩」と刻まれている
 付属什器 11尊天得如来像 となっています。

 西方寺の由緒は元河内国岩磐村傍示(現 交野市)の元、真言宗冰室八葉蓮華寺の一支院であった。元禄時代西傍示の一部が東(大和国)へ移住するに及んだ、その信徒等と共に栴壇院と西方寺が当地に移転合併し正覚山栴檀院西方寺として再建された。

 西方寺から少し離れた高台には東傍示の氏神様としては天満神社がある。
  祭神 菅原道真公
  由緒 不詳
  境内神社 1社 
  恵比寿社 祭神 蛭児命

 「氏神さま」について交野市史には次のように記載されている。
 元禄の終わり頃「むくろじ(小字尺地付近と思われる)」(西傍示から元禄年間に別れた。最初むくろじへ移ったが、水が無く不便であったので現在の東傍示へ移り住んだ)、で西傍示の氏神さまの御神体を盗もうと相談がもち上がったが、私が盗もうという人はいなかった。ところが、そのころ、「さいめい」という全国を渡り歩く者がいて「俺が盗もう。その代わり俺が死んだら四方を見渡せる山の頂に墓を造ってほしい」そのことを条件にして盗み出すことを承知した。今、「西神の森」の頂が「さいめい」の墓だという。

 「さいめい」を訛って発音すると「さいめん(さいめ)」と聞こえる、これは「境界」を表す言葉であって、「さいめい」の墓は河内・大和の境界と思われる。
 山崎宮司は「西神の森」を「塞神の杜」と表現している。
又「河内・大和の国界にある傍示の「塞神の杜」は古い時代の外来病の防疫に備えた名残りを物語っている」。とも書いている。

 墓地については高山八幡宮文書「出訴一件」文化8年に「高山村枝郷東傍示村之内字菖蒲谷の峯に有之、東傍示村と河州西傍示村よりも葬る也」とある事から両傍示の墓地は同じ場所にあり、昔は1つの集落だったことが判る。

 集落を右手に見て市道7号線を北進すると人家が無くなった付近から左に入る少し細い道にさしかかる、この道は大阪府民の森及びカイガケ道に続く、府民の森からクロンド池を通り市道七号線への道は別の機会とします。
「むくろじ」は「向露寺」、高山の墓寺でこの項も別の機会に説明。

参考文献 生駒市誌、北倭村誌、郷土誌資料(山崎清吉著)、交野市史、
     生駒古文書調査書、向露寺調査資料(著者不明)、
     大和国町村誌集、生駒北小学校創立110周年記念誌、
     北倭村風俗集。
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by kwsan | 2015-12-21 19:06 | 歴史 | Comments(2)
Commented by Nick726 at 2015-12-22 10:14
FBが勢力を増してブログの影が薄くなってきてますが、ブログでアップするときにFBにもリンクするようにすれば1度で2か所にアップできるので良いですよね。
以前は同じ記事を別々にアップしてたけどだんだん面倒になって~~~
今はガラ系からはFBにはアップする事が出来ず(出来るかもしれないけど)ブログにアップ、帰宅後にFBにリンクさせてます。
Commented by kwsan at 2015-12-22 20:54
最近ブログもおっくうになって随分と書き込んでいなかったので何か書き込もうと思い、今日まで色々と調べたこと並べてみました。生駒に住んでいる者でないと内容はわかりにくいと思いますが。