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自然と歴史
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自然の中に歴史がある

by kwsan
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生駒市北地区における明治頃の力士「虎竹」


江戸末期から明治にかけて生駒市北地区に力士がいた事が北倭村誌に記載されている。
 それによると、権左衛門の弟に「虎竹」という者がいた。彼は角力取りであったが後博徒の親分となり、この地方一帯の親分として其の勢力は極めて盛であった。村の中でどんな争いが起きても彼が顔を出して「俺に任せ」の一言に誰も異議する者なく事を納めたと云う。したがって近傍数十里虎竹の名を言う者なく唯親分を以て通用したと伝えられている。

 北倭郷土資料によると北地区には甫田権と呼ばれる豪農権左衛門がいた。虎竹は其の弟で当時のもめ事(騒動)をたくみに裁いて人々から畏服されていた。

庄屋、寺院等において当時もめ事を統制する必要上、実力で其の解決を図って行くため、、お抱え力士をおいていた。

法楽寺に「虎竹政右衛門」という石碑があり、石碑には「門弟中」「于時 安政五戊午歳九月吉日」(1858)と刻まれ、」28名の四股名が刻まれている、碑は政右衛門の還暦祝いに門弟が建立したと古老から聞いている。
 生駒市誌によると現在判明している弟子は以下の通りである。
虎竹重太郎(田中)、大和川由松(向井)、若松楢松(中田)、錦山政太郎(稲垣)、荒石石松(渋谷)、梅ヶ谷与市(鈴木)
「重太郎」は虎竹重太郎といい政右衛門がこの世を去った後高山の角力界を大いに発展させ、明治34年3月26日、高山八幡宮前において大相撲を興行した。重太郎の孫に県会議員がいた事は知られている。

「虎竹政右衛門」が死亡したのは明治13年(1880)、83歳で、寛政9年(1797)生まれ、甫田権(甫田とは小字名)なる権左衛門は法楽寺所蔵の過去帳(小字甫田地区)には見当たらないが「権右衛門」なる人物は記載されているので「権左衛門」ではなく「権右衛門」であろう。死亡したのは慶應元年、73歳、寛政4年(1792)生まれで、権右衛門は政右衛門より5歳年上である。
 次に権右衛門の父は清左衛門、母親の名は不詳、政右衛門が9歳の時亡くなっている、その後父は再婚した。古老の話によると9歳で母を亡くした政右衛門は子供の頃より手の付けられない暴れ者で成人に生長した、家の財産を持ち出すやら博打するやらで、家族は困り果てて、早く所帯を持たそうと親と一緒に分家させたが、同じ事であったと聞く。土地の売買の古文書は地元の旧家に残っており古老の話を裏付けるものである、有井山家には「政右衛門手錠預りに付」の古文書が残っており悪事も働いたと思われる「私儀不将に付」は本人が役人へ提出した古文書で有井山家に残っている、これらの古文書は文政9年とあり彼が30歳の時である。その後どのようにして角力の親方になったのかは不詳。

法楽寺には「虎竹」以外に「立浪清兵衛」及び「立浪塔」の2基の石碑がある、これも力士の碑ではないだろうか。持ち主の話では先祖に角力取りがいたと言っていることから「立浪」と云う角力取りがいた思われる。この碑は文政9年建立とあることから、政右衛門が問題を起こした年でもあり、立浪が亡くなった後法楽寺は「虎竹」の名でお抱え力士を置いたと考られ、虎竹は立浪を継いだと思える。

権右衛門及び政右衛門の兄弟は向露寺墓地に葬られている。
又「若松」の碑も向露寺墓地にあり「虎竹門弟中」と刻まれている。阿弥陀寺の境内にも「荒石清八墓」「文政7年甲申立之」「門弟中」と刻まれた力士の碑がある。(1824)。
「若松」「荒石」以外の弟子が葬られている墓地については不明であるが「重太郎」「大和川」「錦山」は無縁寺墓地で、「梅ヶ谷」は山田墓地ではないかと想像する。

虎竹政右衛門の人物像及び角力界で活躍した文献はなく伝承だけであって、その人物はいたと云うことは事実である、今後の研究に期待する。

追加、権左衛門について北倭村誌に次のように記載されている。
 昔、権左衛門と云う男がいた。彼は喧嘩好きの統領であって喧嘩して負けたことなく、且つ必ず物にしなければ巳ざると云う風潮があった、或時、懐中物が無くなったので例の喧嘩に依って一儲けしようと思い城州各地を廻って喧嘩を売り歩いたが買う者が誰一人無く彼は相手のいないのに困り果て、河内の星田に至り或賭場に入って賽を引きつかんで去ろうとしたが居合わせた者、権であることを知って誰一人追う者が無かったので流石の権も喧嘩の売りようが無く愈々弱り切り和泉に入り牛を買い転売して利益を得たのでここで始めて心機一転正業に就きまじめになる人生を送ったと云うことである。


○ 城州 → 山城国 → 現在の京都府南部
 7世紀に「山背国」という表記で国が建てられた。
 平城京から見て「奈良山のうしろ」の地域にある事から来ている と云われている。
○ 星田 → 現在の交野市星田
○ 高山地域には馬喰を正業とする者がいたことは古文書より判明 している。

 参考文献 北倭村誌、生駒市誌Ⅲ、生駒市古文書調査書1~5
by kwsan | 2015-12-13 21:53 | 歴史