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古 道(中村地区周辺)


生駒民俗会発行の「生駒の古道」高山・伊勢街道を歩きその土地の歴史を振り返る。
 

高谷集落との境界を越え中村集落に入る。表通りに出るまで人家と田んぼが続く緩やかな下り坂である。

 「中村」集落の字名は、法楽寺文書「高帳」(明暦1年 1655)に記載されており、当時、中村集落として独立していたと考えられる。
また、法楽寺文書 文化四年(1807)勧進帳には「中ノ」「出谷」「木挽小谷」「高見」「風呂谷」「芦谷」「小谷」「中」「井屋本」「長谷」「野神」「向井」の小集落が存在しそれらの上に「中村」があった。

「生駒の古道」には「中村は南の鹿畑に続く、いわゆる「清水道」と「北田原、東畑」を結ぶ東西道が交差する位置にあります。嘉永元年(1848)の絵図「大和細見図」にも中継として「中村」の名が記され、かって高山交通の要衝だったことが判る」と紹介されています。天保14年の絵図にも高谷から中村を通り鹿畑に通じる道があったことが記載しており、「中村」の集落は古い時代から独立し高山の重要な中継地であったことが窺える。


集落に入る前に寄り道して中村の二月堂へ向かう。
此所は高谷集落との境界で、こんもりした森の中の高台に南向きでお堂は立っている、高台からは眼下に中村集落、田畑が見える。木々が伐採されているのでお堂の周辺は明るい。
 二月堂の祭祀は観音厨子である。地面に今は使われなくなった供台?と思われる焼き物や、灯明を点したと思われる火袋が落ち葉に埋もれている、供台?には「奉納、二月堂 明治31年1月吉日 26才男」と書かれ奉納者の名が最後に記載されている。火袋には「奉納 丹後田辺」とあり最後に文字が見えるが読めない。地元の方であろうかお堂の前には寄進者の石碑があり、表に「献燈」と有り金額と名前が刻まれている、裏には「昭和51年8月吉日」と刻まれている。
 現在、二月堂遥拝所は、集落(80戸)で祀られている、祭祀の世話役は輪番制で、法要は無縁寺の僧侶によって、8月17日の夜に行われる。当初は青年会の行事であったが、現在は集落(垣内)の行事に移ってしまった、当時は青年達の一大行事だった思われる。
 戦前には流行病、旱魃等に苦しんだとき,二月堂に籠もって護摩を焚いて祈願した、戦時中には家族の無事を祈ってお百度を踏んだと云えられている。

 この集落には「二月堂観世音菩薩遥拝所設置由緒書・中村青年会」と云う古文書が保存されている。

        峯の二月堂観世音菩薩遥拝所ノ由緒書
仰東大寺二月堂観世音菩薩遥拝所則字中村垣内ノ峯ト謂ヘル所ニ安置ナシタルハ元来同村九平氏ノ開基創立ニシテ・・・・同村ニ於テ以前少年ノ輩友連中ト名称シテ組織シ来ルニ・・・・青年会ト改称シ組織シ、前書ノ二月堂ヲ青年会へ元創立主ヨリ譲請、左ノ世話人ニ依頼シ同村ノ協賛ヲ経尚基ニ寄附ヲ受納シ・・・・就テハ諸附属献具ヲ新調シテ、爾来ハ青年会ヨリ守護スル事ニ確定シ、爰ニ紀念ノ為一書シ、保証候事
      明治参拾壱年(1891)壹月廿六日
                  高山ノ内中村
この後に世話人が7名が記載され,当時の村長の名も見える。

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中村の二月堂


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                 供 台?  
                            
                    
二月堂の西に阿弥陀寺がある。寺の沿革によると
 「今の阿弥陀寺の住所地に数百年前から峯堂(むねんど)と云う一草庵があった。この草庵を寛永年間(1624~1643)に信誉上人が増改築され佐太の来迎寺の末寺として開山された。以来十数代を経て第十九世来誉上人が寛政八年(1796)に本堂、客殿を建立され、鐘楼堂は文化二年(1805)に、表門は文化八年(1811)に、第二十世願譽上人が建立されて寺院としての外観だけを備えられた。その後第二十五世の香厳上人が寺域を広め、仏具、荘厳も整えられ境内の整備もされた」。その後、寺で起きた色々な出来事が記され、現在に至ると纏められている。
   
   名称    宗教法人 峯堂山阿弥陀寺
   宗派    浄土宗 
   本尊    阿弥陀如来座像
   檀徒    参百七拾戸  信徒 壱拾八戸
   境内    国有地  四百八十六坪



 昭和20年戦争激化のおり、空襲警報が発せられると、小学校が阿弥陀寺の下の方にあった為、小学生は阿弥陀寺の坂を駆け上り阿弥陀寺境内に逃げ込む、境内一帯大木に囲まれ薄暗く上空からは見えなかった、各班ごとに集まり、艦載機が通り過ぎるのを待って、それぞれ年長者と一緒に帰宅する。これが日課であったと古老から教わる。


阿弥陀寺の北側には高山八幡宮、富雄川の西に法楽寺がある、これらについては別の項で説明する。


二月堂のお堂から南に小高い丘が見える、そこには無縁寺墓地があり、大北地区の一部、久保地区、宮方地区の共同墓地である。
墓地の由来は、有井山家文書の「和州添下郡高山村御墓所由来」に記載されている。

       尾谷峯墓所(無縁寺墓地)由緒
 この墓地は昔山城の境にある大谷から寛永15年(1638)3月15日に和州高山郷の久保村尾谷(オダン)の峯に墓移しが行われた。
開墓(供養)は上の坊法楽寺の大阿闍梨特盛であった。

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 無縁寺についての詳しい資料は無いが色々な文献を総合す              
 ると次の様になる。 此所には切支丹の石碑があると言われているが未確認。 
  由緒 不詳
  本寺 阿弥陀寺   宗派 浄土宗
  本尊 阿弥陀如来木座像  36cm(一尺二寸) 金箔置
  信徒 150戸
  住所 高山町小字久保
  喚鐘 高さ47.3cm直径27.6cm
     池の間刻銘 和州高山村無縁寺什物 施主惣檀家中
          正空智代 安永7戊10月佛成日
    駒の爪刻銘 京大佛住西村上総大掾宗春作
この喚鐘は高山村無縁寺の什物で施主は村の檀家衆、正空智住職の時代に造られた、安永7年(1778)10月佛成。作者は京都の宗春である。
(喚鐘、半鐘、梵鐘の違いは一般的に直径で分類される)

無縁寺から東側には切池(きりけ)の集落が見える。
切池集落には行者堂なるお堂がある、高田照世氏著書によると、「切池垣内の行者堂には、高さ1m奥行き50cm程の自然石沈刻浮彫行者像が鎮座し、表に「元文3年(1738)戊午7月吉日 願主正宝院、切池俗名庄兵衛」裏に「奉造立 大峰山上三三度 為二世安楽」の銘がある。また、棟札には「天下泰平 大和高山 奉新建神変大菩薩堂字村内安全也 五穀豊就 金丸講中敬白」「我此土安穏天人常充満 其一切徳也 維持昭和31年2月26日厳修」と書かれている。
 行者像は元文3年7月、切池の庄兵衛が、大峰山上に33度参詣した記念に建立した、当時は、大峰三上参詣が流行していた事が窺える。また、行者堂は昭和31年に金丸講(キンマルコウ)が、村内安全、五穀豊穣を祈願し建立した。現在、切池集落では金丸講の活動は行われていない。


また、切池集落には電子技術発展のため昭和40年頃に出来た、電波測定所がある、此所は電気製品から発する不要な電磁波(電波)を法律上許される範囲にあるかどうか測定,判定し適合すれば証明書を発行する社団法人である。高山地区では余り知られていない。


 この建物から少し南に切池の吉兵衛さんという人が住んでいた。現在、子孫は関東圏へ移住したと聞く。 大正四年北倭郷土誌資料によると、

 吉兵衛ハ政吉ノ先代ニシテ、幕府ノ未造ヨリ維新ノ初期ニ至ル迄、旗本堀田家ノ庄屋ヲ努メ其ノ大庄屋各タリシヲ以テ、勢力権力一時隆々タルモノアリキ。俗ニ切吉ト称スルハ、其ノ居宅ガ切池ニ在ルヲ以テナリ。
    中略 
 何時ノ頃ヨリ薩摩ノ出入ヲ努メテ同藩ノ重ンスル所トナリ、彼ノ島津家ガ率先シテ始メテ堺大浜ニ洋式製糸場ヲ創立スルヤ、吉兵衛ハ挙ゲラレテ同地青木久三郎(大醤油屋)大徳(川尻筋回船問屋)ト倶ニ之ガ監督ヲ托セラレタリ。又旧主堀田主計ガ維新ノ際朝廷ニ帰順シテ少額乍ラモ家禄ヲ下賜セラレ、先祖ノ祀ヲ絶タザルヲ得シモ、実ニ吉兵衛ガ薩摩ニ対スル縁故ニ困りテ斡旋大ニ努ムル所アリタルニ頼レり。又幕府時代ニ在リテ吉兵衛ガ其ノ名義ヲ以テ堀田家ノ金札ヲ発行シ、付近一帯ニ信用ヲ得テ弘ク通用シタリ。吉兵衛又事業経営材幹ニ冨ミ、維新ノ初、率先シテ牧牛養豚ノ事ニ従ヒ、又若州(注1)ヨリ金扱(農具)及ビ鰤ヲ取寄セテ売弘メ、又米買ヒ山買イ等手出シ、且ツ京都西陣織物ニモ関係シ、其間失敗ナキニシモ非ザリシガ成功セシコトモ亦尠ナラザリシトイフ。
    中略 
金札発行ノ際ニ於ケル警護ニハ、専ラ村ノ若者ヲ徴収シテ之ニアタラシメタトイフ。
以上のように記載されている。

 生駒市の古文書調査の折、小判数枚が発見され生駒市教育委員会が保存して居ると聞く、又、薩摩藩との付き合いも、広く行われていたことが当家の文書等で判明している。又、吉兵衛が通るとき通行人は道に平伏して見送ったと地元では伝承されている。
   注1 若狭国はかって日本の地方行政区分だった令制国の一つ、
      現在の兵庫県佐用郡佐用町若州

 切池集落から市道72号線に出て京都方向、数100m先の小高い丘の上に延命地蔵がある、元は丘の麓にあったと云われている。
延命地蔵は中村集落(80戸)で祀られており、江戸期の地蔵菩薩像四体と貞享年間(1684~1688)の六字名号板碑を祭祀している。毎年7月23日の夜七時から行われる祭りには全戸がお参りして、無縁寺の僧侶と読経する。


 切池集落から少し離れた場所に「曽我のモリサン」がある。祭神は「曽我大明神」で切池集落の24戸で祀られ、9月23日道作りの後に祭りが行われる、昆布、するめ、粟、菓子、酒等を供え、輪番制の神主が祭祀を受け持ち、祝詞を上げ、その後、直会が行われる。神主には元治元年(1864)墨書銘のある御膳箱と独鈷鈴が受け継がれている。
 昔の道作りは、終了が夕方になったため祭りは夜にり、各自料理と蝋燭を持ち寄り、夜遅くまで酒宴が続いた。
 最近は道路状況も良くなり道作りは昼までには終了する。そのため祀りは午後からとなる。
 曽我のモリサンは久保地区(現在の自治区域)の外れの山中に存在し、此所を越えると大谷墓に通じる。尾谷に墓移しが行われるまでは此所に墓地があった。
 昔、社が災害に合い、別の場所に移動されたが、社の向きが悪く災難が発生、そのため社は切池集落を向く位置に修正、災難は無くなったという伝承がある。
以上は「祖霊と精霊の祭場 高田照世著」より引用。

 「道作り」高山の各地区(垣内又は集落)に於いて行われる行事である、今の様に道路が整備されていなかった頃、道が崩れ狭くなったり、穴が空いたり、で通りにくくなった部分の補修工事を集落総出で行う行事である。
日時は収穫前の9月頃から10月頃と決まっていた。

 その他に「かわぎり」という行事もある、呼び方は地区により違うかも知れないが、川に土砂、ゴミ、雑草などにより川幅が狭くなって、大水による災害防止を目的に行われる。(川を切り取ると云う意味で狭くなった部分を削り元の広さに戻す作業)作業は台風の季節前に行われるのが常である。
 現在、「道作り」「かわぎり」は高齢化、護岸のコンクリ-ト化、道路の舗装化のため一部の地区のみ行われている。


 久保地区(現在の自治区域)に「人木谷」という地名がある、昔処刑場ががあった地で「人斬谷」と呼ばれていた、何時の時代か判らないが、この字では不都合が生じるので「人木谷」と呼ばれる様になったと伝承されている。
生駒市誌に記載されている高山町小字地名図には「人木谷」なる地名は見当たらない。


参考文献 
生駒の古道、生駒市誌、法楽寺文書、有井山文書
祖霊と聖霊の祭場 高田照世著、北倭村風俗誌調、
生駒市古文書調査報告書、北倭村誌、
北倭郷土誌資料、高山文化研究会資料。


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# by kwsan | 2016-02-10 21:05 | 歴史 | Comments(0)
空き家
夏の間は葉っぱに覆われ見つからなかった、葉っぱが散ると枝に作られた蜂の巣が姿を見せる。すでに空き家である、子供達は総て生長して旅立ったのだろう、扉が開いている。
今年もやってくるのだろうか、楽しみだ。
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# by kwsan | 2016-02-05 11:56 | 昆虫 | Comments(2)
ウォーキング

 1月は室内で過ごす日が多く、2月からは出来るだけ屋外で過ごす時間を多くしたい。
 今日は健康保持のため、向露寺駐車場からクロンド池方面にウオーキングに出掛ける。車は向露寺墓地の駐車場に、住職と総代長の許可を得て駐車場を借り、10時駐車場を出発、クロンド池方面には車道に付随した歩道は無く、大きい車がひっきりなしに通るので注意が必要。

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 鉄工所が進行方向右側に見えてくる、鉄工所の前を横切ると道路は大きく右におれ、道路の両側から木の枝が覆い道路は薄暗くなる、車は、すごいスピードで通り過ぎていく、道路は益々暗くなり左に大きく折れる、暗がりの中から前方に三叉路が見える。
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右に行くと枚方市方面、真っ直ぐはクロンド池、三叉路まで来ると枚方方面に警察車両が赤いランプ回転させ止まっている。野次馬根性でそちらに向かう、車同士の衝突事故、生駒市清掃社と一般車両と思われる、両方の運転手側が大破していた、先ほど救急車が通ったのでけが人も出ているのでしょう、警官の誘導でそこを通り抜けクロンド池の水口に着く。
 クロンド池補修工事の碑がある、隣には観音さまだろうか祠が建っている。この付近は水深3から4m在るだろう、昔は樋迄丸太が置かれそれを伝って樋の上に登り樋を持ち上げていた様に思う,今は岸からハンドルを回すだけですむ。
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 碑の後方に水を排出する水路が見える。水口及び樋から出てくる水を2方向に時間あたり同分量流れる仕組みになっている、クロンド池が出来た時から、この方法を取り入れ、取り水によるトラブルを防ぐ方法が取られてきた。右は「滝の口から城の茶屋」方面、左は「茶屋の谷から墓ノ谷」方面の水路、どちらの水路もその先は富雄川に繋がっている。
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池の南側遊歩道を進み
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久しぶりに展望台に登る、
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 木で作られた階段を上り始めたが中々展望台にはたどり着かない、登りかと思えばくだり、又木の階段、運動には良いが早く着きたいという気持ちが歩く速さを早める、5分ほど歩いただろか、やっと展望台が見える。
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この登りで汗だくになるが冷たい風も心地よい、展望台に上り一休み、天気が悪いので、クロンド池を上から見た写真も霞が掛かり何となく暗い。
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帰りは違う道を利用して新池の南側におりる、階段は急だが道のりは半分以下。
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新池の西の堤防を通り抜け、アミジョ池に着き時間を見たら11時
今日はここまでと帰宅、今度はクロンド池の北側の道を通り桜並木の堤防を通り抜け山道に入る。
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 落ち葉の積もる道が10分ほど続き、段々の田んぼが連なる「城の茶屋」にでる。材料置き場などの建物がある道から高山城跡の遊歩道の坂道を下り向露寺墓地駐車場に着く。1時間半ほどのウオーキングだったが1万歩ほどの歩数となった。


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# by kwsan | 2016-02-01 19:19 | 風景 | Comments(2)
夕べから今朝に掛け気温低く体にこたえる。昨夜11時頃すでに零下5度、今朝も変わらず水道の蛇口は対策したにもかかわらずバルブは動かず。洗濯機昼頃までお休みだった。
そんな中にも植物は春を伝えてくれている。
                                
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        梅も5分咲きこの寒さに一休みという所
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         今日の寒さにも菜の花は耐えているようだ
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          花の名は知らないが一輪 目に付いた








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# by kwsan | 2016-01-25 16:57 | 植物 | Comments(0)
古道(高谷集落付近)

生駒民俗会発行の「生駒の古道」高山・伊勢街道を歩きその土地の歴史を振り返る。


 向谷から「笹見谷」を抜け「坊殿(ぼうどん)」を後にして市道65号線を渡り左へおれる、暫く進と三叉路に石橋が架かっている(よく見ないと見落とす)、石橋はがっちりとした大きい延べ石で造られ、随分と長い年月、多くの人を見送って来たのだろう、橋の表面がなめらかである。 橋を渡らず真っ直ぐは、精華町東畑、京田辺市打田方面への旧道、現在は途中で市道65線に接続。

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            東畑、打田方面の旧道

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              石橋を渡り向こうが高谷集落

 この付近には「池之内」「十護寺」なる小字が存在。現在は山や田畠になっている。
 「池之内」の地名は延久2年(1070)興福寺雑役免帳に見られる、この頃すでに集落が存在していたと思われる、周辺の旧家の過去帳には「池之内」から移転と記載、過去帳は元禄時代から始まっているので、約300年以前にすでに集落があったことは事実である。
「十護寺」についての伝承はないが、寺院があったのではないだろうか。集落のある所には寺院があっても不思議ではない。


 橋を渡り緩やかな坂道を登りきると、高谷(たかだん)集落の入り口である。
「高山惣絵図」によると、高山八幡宮の北側にある谷で大門村に「字高谷」と言う地名が認められる。又、天保14年の絵図には、向谷を通って高谷集落を通り抜け、次の集落への道も記載されている。


 高谷の地名は法楽寺文書「覚書綴」慶安元年(1648)にすでに現れている。それには以下のように記載されている。


 1.高谷田8町仕候年慶安元戊子年仕候、堤ハ惣中合力、田普請   ハ我等仕候、手間前後二百仁、今年米弐石三斗作申候、


 要約すると、高谷集落の八町の水田は慶安元年に開発し、堤は村中で力合わせ築き、田の普請も我々が行い、のべ200人の手間を掛け、今年(慶安元年)に完成した、その結果米二石三斗の収穫があった。又、この後の文章に宮方の田地普請、築堤も高谷の人達が工事に関与したと記載している。


 集落の道を下って行くと、その先は人家の庭先から畑の畦道に続いている、通るには持ち主の了解も必要だろう。それに近年猪がこの辺りをウロウロしているので注意と持ち主は言っていた。

 畦道を過ぎると山道になり、落ち葉が道一面に積もり山の香を残す。道は昇り坂になり、頂上は三叉路でこれを越えると次の集落に入る。頂上付近は高谷集落と隣の集落との境界になっている。


 高谷との境界付近には平成20年頃迄オダイッサンの祠があった、現在、祠はなく瓦や木材が散乱し、土台の延べ石のみが残って、落ち葉が歴史を封印しているかのようである。
持ち主(奈良市在住)の話によるとオダイッサンは木造座像で、痛んで正常な姿ではないが祀っているとのこと。
又このオダイッサンは、明治34年頃に高山で始まった「高山新88ヶ所 52番札所 中村の峯」となっている。最盛期の3月21日には沢山のお参りがあり持ち主が、お菓子やおはぎを提供して接待したと聞いている。
祠は何時頃造られたのかは不詳であるが、「高山新88ヶ所」を考えると明治30年頃の建造ではないだろうか。

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             オダイッサンの祠跡

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              祠に使用されていた鬼瓦

 近くに愛宕山の灯籠が立っている、建立目的は不詳である、その横には小さな石碑が3体列んでいる。灯籠には榊が御供えされ、火袋には愛宕山神社の札が納められている、灯籠に刻まれた文字は解読出来なかったが「○永3午○ 12月10日」と読める所から「安永3午年(1774)12月10日」と考えられる。灯籠と石碑は別の場所で祀られていたが、30年ほど前この場所に移動したと地元の人から聞いた。

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          愛宕サンの灯籠と3体の地蔵さん


 高谷集落の小字長谷には、昔から太い蛇が住んでいるとの伝承がある、人間に危害を加える事は無く、静かに高谷集落を守る地主神ではなかろうか。


 金刀比羅社は高谷と東大門の垣内47軒で祭祀しており、祭祀は9月1日、以前は垣内の山中で祀っていたが、何時の時代か判らないが八幡宮の境内に移転した。当時は木造で大きな社であったが壊れてきたので、その後コンクリートで社は造られた。
地元の人に祭祀の理由を聞くと「高谷の住民が水難に遭わないため」と聞く

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              八幡宮に祀られている金刀比羅社

 個人的な意見であるが、古文書に高谷の水田は地元で開発したが、長年に亘って、水難に遭遇してきたので神仏習合の神として「金毘羅大権現」を祀ったのではないか。明治元年になって「神仏判然令」が発せられ廃仏毀釈という過激な神仏分離が起こり「金刀比羅社」に名を変え八幡宮に移転した思われる。
 辞書によると「金比羅」はガンジス川の鰐(ワニ)が神格化されて仏教の守護神となったもので魚身で蛇の形をし、尾に宝珠を持つ「宮毘羅」(クビラ)で薬師如来の十二神将の一つであると言われている。
 推測であるが、「金刀比羅社」は伝承の蛇に関連があり、その付近に祠があったのではないだろうか。


 
参考文献 
生駒市誌、生駒市古文書調査報告書、法楽寺文書、天保14年の絵図
地域的霊場の成立と展開 津浦和久著、祖霊と精霊の祭場 高田照世著


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# by kwsan | 2016-01-20 16:26 | 歴史 | Comments(0)
向谷集落周辺


生駒民俗会発行の「生駒の古道」高山・伊勢街道を歩きその土地の歴史を振り返る。


 白岩橋を右に見て市道7号線を渡ると「向谷集落」である。その境界付近には毎年正月と秋祭りには「御神燈」なる提灯が立てる風習が残っており提灯の立つ向こう側は向谷集落と考えられる。
「向谷」の地名は古く法楽寺文書 「公儀御法度条目3通請書(貞享4年1687)」に見られる。

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        提灯の向こうは向谷集落 橋は美の原川に架かる橋



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              上記写真の同じ場所


 本願寺には「輿入用代銀弐百卅五匁」「元文六幸酉年(1741)」「念仏講什物同行十四人」「三月吉日」と墨書きされた大きな箱の蓋(1070×1020の一枚板)が残されている。
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             念仏講の道具入、箱の蓋の裏

箱からは古文書が見つかりそれには「倹約申合覚書 向谷垣内」文末には「文政元年(1818)庄田村中」とある。

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                倹約申合覚書 末頁

 この頃の高山村には、傍示、庄田、大北、大門、久保、中、宮方、芝の八垣内が存在した、これらの垣内は、地縁的な強い結びつきを有しており「村中」として申し合わせを行う事もあった、文政元年に「壱拾カ年間倹約」すべき事項を申し合わせている「倹約申合覚書」はその1例と、生駒市古文書調査報告書に記載されている。
他に「念仏講かけぜん覚帳」などが見つかっている、本願寺過去帳に向谷の檀家は16軒となっており、念仏講の同行14人とほぼ合致する。
 本願寺什物に「文化14年丁丑年11月朔日 細工向谷仲右ヱ門」と蓋の裏に墨書きされた仏涅槃図を入れる箱もある。
以上のことから向谷集落全体は本願寺との関わりは強く、古くから関わっていたと考えられる。地元の人に依ると「最近まで向谷念仏講の道具が必要な時、本願寺へ引き取りに行った」と云っていた。



美の原川の橋を渡ると急な登り坂から緩やかな道になる、目の前に大きな木が茂る森が見えてくる、某保険会社社長の生誕地である。道路は四叉路にさしかかり東南の角に灯籠が建っているのが見える、立てられたのは不明だが、道案内のために建てられたものだろう。「生駒の古道」には小森畑の伊勢灯籠と紹介されている。
 この辻を左へ進と頂上には「しるし墓」がありこの付近が向谷との境界でこれを越えると「小森畑集落」に入る。この地名も古く「元禄3年(1690)の八幡宮棟札に「子守(小森畑)」と出てくる。小森畑には有井山家、冨田家等の近世に活躍した人物の子孫も健在であり一時期有井山家文書から有井山家地内に陣屋が置かれていたことが判明している。

現在は向谷と小森畑を一緒にして「南垣内」という自治形態を取っている。

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                  灯 籠

 灯籠を見ながら急な坂道を登る、途中には竹藪が続く、この周辺には戦後暫く数件の人家がありその一軒が瓦を生産していた史実がある。その子孫は地元に住居を持たないが健在と聞いている、その瓦は地元で消費され、その一部が本願寺本堂屋根にも使用されている事が瓦に刻印された文字から判明している。
 細い道の頂上には携帯電話のアンテナが立っている、それを右に見て急な坂を下ると道は土手ぞいに続いているのが見える、遠くに「高谷集落」が望める、右手前方には竹林園の競技場がある、この谷一体を「笹見谷(ささがたん)」と呼ばれている。この周辺は竹林園が出来る前まで段々に田が連なっていた。

急な坂を下ると道は緩やかになり、右手に池が見え三叉路(はっきり判らない)にさしかかる。池の堤防を通り細い坂道を登ると竹林園、竹林園を通り抜けると富雄川に出られる。
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   笹見谷 遙かに高谷集落が見える、右手池之向こうに竹林園グランドがある

 竹林園には、戦国時代の豪族「鷹山氏」の菩提寺である円楽寺があった。
現在この墓地は法楽寺と鷹山家の家臣に依って組織されている無足人座の人々により保存されている。春に法要が法楽寺と無足人座の人々によりで行われている。

 鷹山氏の墓跡には以下のような石碑が列んでいる。
  山形名合板碑     享保2年 (1529)
  五輪塔        明応9年 (1500)頼栄
  五輪塔        永正16年(1519)頼宗
  五輪塔        天文12年(1543)?
  五輪塔        天文20年(1551)頼春
  五輪塔        天文22年(1553)弘頼禅定門
  五輪塔        天正8年 (1580)頼盛大徳
  五輪塔        貞享3年 (1680)頼茂大徳
                       妙徳大師
            (三輪氏、東大寺中興公慶上人の母)
  五輪塔        元禄16年(1703)頼忠居士
  五輪塔        享保4年 (1719)頼安居士
  五輪塔        享保9年 (1729)頼心居士
  他に無記年3基、永正残欠1基、小石仏郡が松林にあり


 円楽寺は法楽寺の末寺で、真言宗新義派 本尊は不動明王で檀家は数件であった。境内は90坪(明治九年 法楽寺文書に記載)でお寺としては余り広くはなかった、由緒については不詳。
又、円楽寺は「寺中5ヶ寺」にも含まれ、正月3日には天下安全五穀成就を祈祷し牛玉法印の祈祷札を村人に配り、八幡宮の座、「寺中座」にも含まれ八幡宮の座にも関係していた。(法楽寺文書「享保16年(1731)当地寺由来書」)。

 当時の円楽寺は鷹山氏の関与により優勢をほこっていたが元禄の頃になって鷹山氏の衰退と同時に廃寺となる、そこで公慶上人が姉の興福院教誉尼と図って、親の鷹山宇左衛門(頼茂)15回忌に際して円楽寺を修復し併せて興福院に関係する僧を住持に入れた、したがって近世の初め頃までは鷹山氏の影響はあった。

 昭和61年、生駒市の発掘調査概要によると「中世城館の存在、廃円楽寺の遺構を確認するに至っていない」とあることから、明治元年になって発せられた「神仏判然令」により廃仏毀釈と言われるような過激な神仏分離の動きが起こり(明治21年8月に毀された伝承がある)円楽寺は取り毀された。したがって現在円楽寺跡地は確認出来ていない。
                   

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           円楽寺跡の鷹山氏一族の墓跡

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                  円楽寺跡の墓石群

三叉路から田んぼ沿いの緩やかな坂道を下っていくと「坊殿」に着く、坊殿には鷹山氏の住居があったと云われている。今は薮になっているが戦後しばらくは畑や田んぼが連なっていた、川べりには井出があり九頭神川から水を引いていた、今はその井出も崩れ竹藪化している。
次回は高谷集落です。

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      坊殿 竹藪は以前田んぼや畑でした その向こうに竹林園がある

 参考資料  生駒の古道、生駒市誌、向谷念仏講資料、
       生駒市の発掘調査概要(昭和61年)、
       本願寺過去帳(俗名のみ、写)、
       生駒市古文書調査報告書、法楽寺文書、
       近代日本天台の布教理念 木内堯央著、

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# by kwsan | 2016-01-11 20:53 | 歴史 | Comments(2)
古道 九頭神川周辺


 生駒民俗会発行の「生駒の古道」高山・伊勢街道を歩きその土地の歴史を振り返る。

 
 狭戸公民館横から細い坂道を上ると広い三叉路に出る、左に行くとバス通り、直進すると、次の三叉路にでる。右に行くと高山溜池の堤防を通り改良区の敷地内に入る、それを越えるとクロンド池の「樋」及び「水口」の部分に出るが、通り抜けは出来ない。

 三叉路からは急な下り阪になる、この坂を「七曲がり」と地元では呼んでいる、現在の道は市道であるが一部私道も含まれている。このことは余り知られていない。坂道は二度大きく右に曲がり緩やかになる。
旧道は別にあったと云われている、「七曲がり」の由来は、急斜面を真っ直ぐ登る事が出来なかったため道をくねくねと何度も曲がって登ったので、そう呼ばれる様になった。

 緩やかな下り坂を行くと「大八丁(おおばっちょう)」の集落に入る。三叉路には道標があったが道路拡張時取り外され地元の民家で保管されている。道標には3面に文字が彫られており、その一面に「施主大八丁」と刻まれている、後2面は確認出来ない。

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                  道 標 


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             正面に道標が建っていた

 このあたりには「滝壺」「滝の口」「滝の谷」「西川」「滝川」「間ヶ谷(ありがたん)」などの名が残っているが地図にはない。
 高山溜池が出来るまでは九頭神川(くづかみかわ)は溜池の底樋の付近を流れ両岸は切り立った数十メートルの高さの山肌が続き、川には大きな岩がごろごろ転がり水は急勾配を滝から流れ落ちるかのように流れ、峡谷を思わせる場所だった。
 法楽寺縁起には「法楽寺より30町北 二丈餘の瀧あり是川の源初なり」記載されている。このことからこの付近に滝があっても不思議でない場所である。


「九頭神川」と何時から呼んでいたかは定かでないが、現在は「一級河川の富雄川」となっている。元禄時代の絵図にはタキ川(大和国町村誌集には「瀧川」とある)と記載されている
 この下流に「滝壺」なる場所があり、入り口を「滝の口」と云ったのではないだろうか。「滝の谷」も滝壺あたりではないだろうか。

 堤防下の川を地元では「西川」と呼んでいる。「大八丁」の集落から見て西に位置する川であることから呼ばれるようになったと考えられる。
「滝川」は「西川」から取水している 井出の名前と聞いている。
「間ヶ谷」とは「大八丁」と「小八丁」の挟まれた地域(谷)と云われているが境界などは定かではない。
「大八丁」は「和州添下郡高山村差出し帳(明和5年1785)」、「間ヶ谷」は「法楽寺文書、敬白諷誦文事(安永2年1773)」に見られる。


 堤防の下あたりに、昭和8年頃、九頭神川から東へ少し離れた場所に両方から岩盤くり抜き80mの導水路をつくり水力タービンを動力とした織布工場があった事はあまり知られていない。
 導水路は両方から2人宛掘り始め貫通するまで3ヶ月要した。工場の大きさは10間×8間で寄宿舎は工場近くにあって、機械は豊田製の紡績機で新旧合わせ28台を備えた立派な工場だった。生産は順調で麻の蚊帳、木綿布などを地元の仲買人を通し販売されていたが太平洋戦争の影響で原糸が入手難となり創業から10ヶ年で閉鎖した。創業者の子孫は狭戸に現存、仲買人は北田原及び大北の住人だった、跡地は田んぼとなり現在導水路の面影はない。

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       向こうの土手あたりにおり布工場はあったと云われている

大八丁の集落を過ぎると九頭神川と道路は平行して続き、高さ3m程の滝のような場所にでる、この辺りを「石井出(いしで)」と地元では呼んでいる。今は道路になってしまっているが昭和50年頃まで水車があり、有山日記には「水車行き」と何度も出てくる。そこから20mばかり下ると「城の茶屋橋」がある。
道路が拡張されるまでは橋のたもとから水車小屋への小道があった。
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                   石井出  

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        この付近を石井出と呼ばれ黄色の枠辺りに水車があった

この橋を渡った斜面(田んぼ)周辺を「城の茶屋」と云われており昔、茶屋があったと
「生駒の古道」に紹介されている。坂を登った向こう側は「茶屋ヶ谷」と云われている。「城の茶屋」の南側のこんもりした森は1500年頃この地を治めていた鷹山氏の城跡で「城山」と地元では呼んでいる。「生駒の古道」では高山城跡として紹介されている、城跡から南に続く峰は本願寺裏墓地に続く(現在は通行出来ない)。
「城山」及び「茶屋ヶ谷」は法楽寺文書の「証文事(元禄6年1693)」に本願寺の領地だった事が記されている。

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            城の茶屋橋 斜面が城の茶

 高山城跡の石造物は谷村家文書によると、建立目的は「清和源氏数百年の星霜を経たると蚩も誰か之を顧みたる者無之故に御大曲を記念として慈に其の事蹟を追想し毎年春季に於いて祭典を執行し永く芳名を地に傳えんと欲す」とある。
 地祭りは大正6年3月23日、本願寺諦頂(諦頂の石碑は向露寺、施主は東大寺別當公海師200世管長)が行う、5月8日開眼供養、東大寺代194世筒井寛聖管長、興福院尼僧、秋篠寺僧侶及び地元10ヶ寺の僧侶が参列したとある。13重の塔は高さ2丈1尺、塔の下に敷き詰められた玉石は「道明寺に参拝、6千余個の金剛石を拾って持ち帰った」とある。

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                 高山城跡

 法楽寺が造営されるにあたり、その土地に住んでいた神様(地主神)について生駒市誌には「高山八幡宮とは別の場所に地主神(九頭神)を祀る神殿があった」。その場所についても「高山(法楽寺)の地主神」として「五社竜王」が庄田の小字九頭神に祀られた。
後に五社竜王(九頭竜王)は小字の「九頭神」で呼ばれるようになったとある。
 川の氾濫で「九頭神」の祠が流出し八幡宮の前で杭に引っかかっていたのを八幡宮周辺の住人が祀った、祠は元々「小字九頭神」にあった事から大正の末期に九頭神地区住人が高山城跡に祀ったと云われている。(北倭村誌では八幡宮ではなく富雄中町の葛上神社となっている)。
 「九頭神」が祀られていた場所について地元では色々な場所の伝承があるがそれを証明する古文書は見つかっていない。
 「九頭神」を祭る神事が「平田の森」で毎年11月10日に行われていたことが八幡宮の「座」に記され、現在も12月に東座内の九頭神座が頭屋の家で会食が行われている。

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            城跡に祀られている九頭神(九頭竜王)

 城の茶屋橋から200m程の下流に四叉路がある。
今の道路が拡張される前までは、四叉路の東北の角に灯籠が建っていたが九頭神公民館の敷地内に移転している。灯籠の正面には「愛宕山」正面右には「九頭神中」と彫られている。この四叉路には秋祭りや正月になると「御神燈」なる提灯が毎年立てる風習がある。これらの風習からこの近くに「小字九頭神」があったのではないかと想像する。

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   正月、秋祭りに提灯が立てられる 提灯の向こう側の小地域が「小字九頭神」
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               正面に灯籠が建っていた
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             この灯籠が建っていた

 九頭神川流域は「九頭神垣内」と呼ばれる地域であるが、何時頃から呼ばれる様になったか定かではない。「小字九頭神」が見られるのは八幡宮棟札の「享保11年(1727)」で、その頃は「大八丁」「美ノ渕(みのふち)」「坊田(ぼた)」などの小字があった事から九頭神川流域は「九頭神垣内」と呼ばれていなかったと考えらる、それならば「小字九頭神」は何処にあったのか?耕筰台帳には四叉路南側周辺の小地域であることを表していた。


 この四叉路の橋には悲しい出来事が伝えられている。
太平洋戦争末期、この頃の橋は丸太を半分に切断し2本並べた橋だった、ある雨の降る晩、歩き屋(注1)が赤紙を持って川向こうの家に出掛けた、行くときは風もなく静かだったので難なく橋は渡れた。帰る頃になるとにわかに雨・風が急に強くなり、番傘をさして橋を渡りだしたが渡りきるまでに風にあおられ川に転落、増水した川に流され下流のドンド(砂防堰 注2)の杭に引っかかり死亡していたと伝えられている。
注1 区長(現在の自治会長)に雇われ用件を地域に伝達する人。
注2 今はコンクリートなどで強固に作られているが昔は杭を何本も打ち込みそれらに竹    などを巻き付けて作られていた。


 九頭神公民館を過ぎて100m程に橋がある。橋の端にコンクリが渇くまでに「昭和46年10月24日」と書き込んだ、いたづら書きがある。誰が書いたかは判らない。この橋を渡った広場にも橋が出来る前まで水車小屋があった。

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            枠で囲まれた部分に水車があった

 暫く進と四叉路が有り橋を渡った所に消防車車庫がある、この橋は古くからあり、天保の絵図にも出てくる。橋の名は不明。
この橋を渡り「西庄田」の集落に入ると5分ほどで、本願寺が見える。今は無住であるが歴史は古い。寺の裏山には墓地が有り火葬場とも思える場所が見受けられる、元禄に向露寺墓地が出来るまでは使用されていたが、墓地が出来てもしばらくは此所の墓地は使用されていた形跡がある。(祖霊と精霊の祭場 高田照世著参照)
 本願寺の由緒は不明であるが、秘仏として「石造地蔵菩薩座像」が祀られている、之には「永正元年(1505)」の銘があり現在は閏年の11月に開帳が行われる。

 本願寺裏墓地には熊野参宮板碑があり「本宮 永正元甲子」(1505)「新宮 願人宗本」「那智3月吉日」と3列に刻まれている。

 境内の十三仏は地元の柳掛けから戦後移転されたもので、石碑の足下に「弘治丁巳三年(1557)」法名多数・最後に逆修と刻まれている。

 自然石六字名号碑は「慶長15年」(1610)、上部に阿弥陀如来三尊像種子、三体、中央に「南無阿弥陀佛」とある、その左に「一月十五日」と刻まれている。

 六字名号板碑は「寛永九天高山」(1632)、上部に阿弥陀如来三尊像種子、三体、中央に「南無阿弥陀佛」その左に「二月十五日上村□中」と刻まれている。
 
自然石 富士講碑は「丙元文元天高山庄田村吉兵衞」(1730)中央に種子一体、中央に「(梵字)奉供養富士浅間講」(人数多数)。
その左には「辰六月八日講中□座」と刻まれている。



「西庄田」に入る橋から九頭神川は急斜面になり砂防堰が幾つも続きその先で、美ノ原川と合流し富雄川となる。急な斜面のため大雨で川が氾濫して道路が損壊通行止めとなった経緯がある。堰が多いことから昔から同様な被害が何度も繰り返されていたと考えられる、不思議なことに高山城跡の「九頭神」が毎日お参りされ祀られている時期には、たまたまなのかどうかは判らないが、大きな被害は聞かない。

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           枠で囲まれた部分に水車があった
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        この付近は何度も川の氾濫で道路が損壊している

 中央付近の対岸にある樒の木の下手に昭和30年頃まで水車が稼働していた。
九頭神川は、高山溜池が出来るまでは水量も多く水車を動かすのに適していた、水車は合計3個所稼働しており、明治36年の「有山日記」にも記載されている所から、水車は明治36年以前から稼働されていたと考えられる、戦後精米機の発達により徐々に使用されなくなり昭和40年後半には総て姿を消した


九頭神川に架かる市道7号線の橋は「生駒の古道」では「白岩橋と紹介されている、以前はそれより20m下流の「向谷橋(むかいたんばし)」を渡る川沿いの道があった。向谷橋は橋の形状から明治以前の建設と思われる。川沿いの道は古く天保の絵図に描かれいる。

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                白岩橋
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          向谷橋 石の上は近代に補強されたと思われる


 参考資料  生駒の古道、生駒市誌、高山文化研究会資料、
       祖霊と精霊の祭場 高田照世著、法楽寺文書、
       生駒市石造文化財、生駒市石遺物調査報告書、
       生駒市文化財調査報告書 12集、耕筰台帳、
       高山由緒因縁砲塔建設紀 谷村家文書、
       井上家文書、大和国町村誌集、


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# by kwsan | 2016-01-05 21:12 | Comments(0)
初詣
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平成28年、地元の八幡宮と檀家寺の法楽寺に初詣。お寺では、今年も健康であるようにと鐘を突いてきた。年々子供さんのお参りがが多くなるようだ。
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# by kwsan | 2016-01-01 01:25 | その他 | Comments(2)
古道 (狭戸から傍示)
生駒民俗会発行の「生駒の古道」高山・伊勢街道を歩きその土地の歴史を振り返る。
 狭戸垣内の会所から高山溜池を両方に見て北進、昔渡っていた狭戸橋が高山溜池に水没しているのが左手に見える。
狭戸橋は何時頃建設されたのは定かではないが「大和国町村誌集」に載っていることから建設は明治末頃ではないだろうか。

 山崎宮司は「狭戸」の地名について、「仁徳天皇43年に鷹飼部が定められます、河内禁野から程遠からぬ峡谷に鷹飼の山があり、山官には山守部があてられ、鷹飼の山部の里が、いつとなく鷹山といわれるようになったのではなかろうか。」背鳩(狭戸)という地名は「鷹飼の山から派生した地名と考えられる」。と書いている。
 「狭戸」の文字を確認したのは、お寺の過去帳で明和3年(1766)それ以前にも存在すると思われる。

 それを過ぎると道は二手に別れ。右は枚方市穂谷方面への旧道、真っ直ぐ行くと市道7号線との交差点にでる。右は平成20年頃に完成した道路で穂谷方面の旧道に接続している。左へは昭和40年頃獅子が丘住宅地が開発されたときに建設された道路で、現在は市道7号線となっている。
 
 交差点を渡り市道7号線を北進すると傍示の集落に入る、集落の入口右手の少し坂を上った所に生駒北小学校の分校跡がある。
 明治7年、西方寺に傍示支校が設置、その後幾多の変遷を経て、昭和9年此所に傍示分校の校舎が新築、昭和47年本校に統合されるまで分校として機能した。
この年、傍示の小学校として百余年の歴史を閉じた、その間、幾多の人材を送り出したことであろう、跡地に建つ二宮尊徳も昔を思い出しているのかのようだ。

 「傍示」の由来について山崎宮司は、「扶桑略記・寛平元年(889)12月2日の条に禁野の境界に榜示を立てたとあります」「この榜示が、いつとなく地名となります、河内の西傍示、大和の東傍示などは榜示が地名化したものです」と書いています。
又交野市史にも「傍示(西傍示)とは榜をたてて、ここが国境であることを示した事から付けられた」となっている。

 伊丹聖氏所蔵の文書に「元禄12年に、傍示の国境では大和・河内東西両傍示の村役人立会で国境を見届けた」とある。
以上のことから東傍示が現在の場所に移転して生活が始まったのは元禄時代(1688年頃)頃と推定され。

 次に見えてくるのは奈良交通バスの傍示駅終点、ここから集落を見上げると一番高い所に西方寺の一部が見える。
 西方寺は
 宗旨  融通念仏宗 
 本尊  阿弥陀如来木立像
 本堂は昭和24年に焼失
 天文舟型地蔵石仏 天文24年(1555)
 無記年舟型地蔵石仏 2基 (年代不詳)
 25周年記念顕彰碑 (本堂焼失から25周年に造られたもの)
  碑文に「人生の終わりに思う親の恩」と刻まれている
 付属什器 11尊天得如来像 となっています。

 西方寺の由緒は元河内国岩磐村傍示(現 交野市)の元、真言宗冰室八葉蓮華寺の一支院であった。元禄時代西傍示の一部が東(大和国)へ移住するに及んだ、その信徒等と共に栴壇院と西方寺が当地に移転合併し正覚山栴檀院西方寺として再建された。

 西方寺から少し離れた高台には東傍示の氏神様としては天満神社がある。
  祭神 菅原道真公
  由緒 不詳
  境内神社 1社 
  恵比寿社 祭神 蛭児命

 「氏神さま」について交野市史には次のように記載されている。
 元禄の終わり頃「むくろじ(小字尺地付近と思われる)」(西傍示から元禄年間に別れた。最初むくろじへ移ったが、水が無く不便であったので現在の東傍示へ移り住んだ)、で西傍示の氏神さまの御神体を盗もうと相談がもち上がったが、私が盗もうという人はいなかった。ところが、そのころ、「さいめい」という全国を渡り歩く者がいて「俺が盗もう。その代わり俺が死んだら四方を見渡せる山の頂に墓を造ってほしい」そのことを条件にして盗み出すことを承知した。今、「西神の森」の頂が「さいめい」の墓だという。

 「さいめい」を訛って発音すると「さいめん(さいめ)」と聞こえる、これは「境界」を表す言葉であって、「さいめい」の墓は河内・大和の境界と思われる。
 山崎宮司は「西神の森」を「塞神の杜」と表現している。
又「河内・大和の国界にある傍示の「塞神の杜」は古い時代の外来病の防疫に備えた名残りを物語っている」。とも書いている。

 墓地については高山八幡宮文書「出訴一件」文化8年に「高山村枝郷東傍示村之内字菖蒲谷の峯に有之、東傍示村と河州西傍示村よりも葬る也」とある事から両傍示の墓地は同じ場所にあり、昔は1つの集落だったことが判る。

 集落を右手に見て市道7号線を北進すると人家が無くなった付近から左に入る少し細い道にさしかかる、この道は大阪府民の森及びカイガケ道に続く、府民の森からクロンド池を通り市道七号線への道は別の機会とします。
「むくろじ」は「向露寺」、高山の墓寺でこの項も別の機会に説明。

参考文献 生駒市誌、北倭村誌、郷土誌資料(山崎清吉著)、交野市史、
     生駒古文書調査書、向露寺調査資料(著者不明)、
     大和国町村誌集、生駒北小学校創立110周年記念誌、
     北倭村風俗集。
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# by kwsan | 2015-12-21 19:06 | 歴史 | Comments(2)
生駒市北地区における明治頃の力士「虎竹」


江戸末期から明治にかけて生駒市北地区に力士がいた事が北倭村誌に記載されている。
 それによると、権左衛門の弟に「虎竹」という者がいた。彼は角力取りであったが後博徒の親分となり、この地方一帯の親分として其の勢力は極めて盛であった。村の中でどんな争いが起きても彼が顔を出して「俺に任せ」の一言に誰も異議する者なく事を納めたと云う。したがって近傍数十里虎竹の名を言う者なく唯親分を以て通用したと伝えられている。

 北倭郷土資料によると北地区には甫田権と呼ばれる豪農権左衛門がいた。虎竹は其の弟で当時のもめ事(騒動)をたくみに裁いて人々から畏服されていた。

庄屋、寺院等において当時もめ事を統制する必要上、実力で其の解決を図って行くため、、お抱え力士をおいていた。

法楽寺に「虎竹政右衛門」という石碑があり、石碑には「門弟中」「于時 安政五戊午歳九月吉日」(1858)と刻まれ、」28名の四股名が刻まれている、碑は政右衛門の還暦祝いに門弟が建立したと古老から聞いている。
 生駒市誌によると現在判明している弟子は以下の通りである。
虎竹重太郎(田中)、大和川由松(向井)、若松楢松(中田)、錦山政太郎(稲垣)、荒石石松(渋谷)、梅ヶ谷与市(鈴木)
「重太郎」は虎竹重太郎といい政右衛門がこの世を去った後高山の角力界を大いに発展させ、明治34年3月26日、高山八幡宮前において大相撲を興行した。重太郎の孫に県会議員がいた事は知られている。

「虎竹政右衛門」が死亡したのは明治13年(1880)、83歳で、寛政9年(1797)生まれ、甫田権(甫田とは小字名)なる権左衛門は法楽寺所蔵の過去帳(小字甫田地区)には見当たらないが「権右衛門」なる人物は記載されているので「権左衛門」ではなく「権右衛門」であろう。死亡したのは慶應元年、73歳、寛政4年(1792)生まれで、権右衛門は政右衛門より5歳年上である。
 次に権右衛門の父は清左衛門、母親の名は不詳、政右衛門が9歳の時亡くなっている、その後父は再婚した。古老の話によると9歳で母を亡くした政右衛門は子供の頃より手の付けられない暴れ者で成人に生長した、家の財産を持ち出すやら博打するやらで、家族は困り果てて、早く所帯を持たそうと親と一緒に分家させたが、同じ事であったと聞く。土地の売買の古文書は地元の旧家に残っており古老の話を裏付けるものである、有井山家には「政右衛門手錠預りに付」の古文書が残っており悪事も働いたと思われる「私儀不将に付」は本人が役人へ提出した古文書で有井山家に残っている、これらの古文書は文政9年とあり彼が30歳の時である。その後どのようにして角力の親方になったのかは不詳。

法楽寺には「虎竹」以外に「立浪清兵衛」及び「立浪塔」の2基の石碑がある、これも力士の碑ではないだろうか。持ち主の話では先祖に角力取りがいたと言っていることから「立浪」と云う角力取りがいた思われる。この碑は文政9年建立とあることから、政右衛門が問題を起こした年でもあり、立浪が亡くなった後法楽寺は「虎竹」の名でお抱え力士を置いたと考られ、虎竹は立浪を継いだと思える。

権右衛門及び政右衛門の兄弟は向露寺墓地に葬られている。
又「若松」の碑も向露寺墓地にあり「虎竹門弟中」と刻まれている。阿弥陀寺の境内にも「荒石清八墓」「文政7年甲申立之」「門弟中」と刻まれた力士の碑がある。(1824)。
「若松」「荒石」以外の弟子が葬られている墓地については不明であるが「重太郎」「大和川」「錦山」は無縁寺墓地で、「梅ヶ谷」は山田墓地ではないかと想像する。

虎竹政右衛門の人物像及び角力界で活躍した文献はなく伝承だけであって、その人物はいたと云うことは事実である、今後の研究に期待する。

追加、権左衛門について北倭村誌に次のように記載されている。
 昔、権左衛門と云う男がいた。彼は喧嘩好きの統領であって喧嘩して負けたことなく、且つ必ず物にしなければ巳ざると云う風潮があった、或時、懐中物が無くなったので例の喧嘩に依って一儲けしようと思い城州各地を廻って喧嘩を売り歩いたが買う者が誰一人無く彼は相手のいないのに困り果て、河内の星田に至り或賭場に入って賽を引きつかんで去ろうとしたが居合わせた者、権であることを知って誰一人追う者が無かったので流石の権も喧嘩の売りようが無く愈々弱り切り和泉に入り牛を買い転売して利益を得たのでここで始めて心機一転正業に就きまじめになる人生を送ったと云うことである。


○ 城州 → 山城国 → 現在の京都府南部
 7世紀に「山背国」という表記で国が建てられた。
 平城京から見て「奈良山のうしろ」の地域にある事から来ている と云われている。
○ 星田 → 現在の交野市星田
○ 高山地域には馬喰を正業とする者がいたことは古文書より判明 している。

 参考文献 北倭村誌、生駒市誌Ⅲ、生駒市古文書調査書1~5
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# by kwsan | 2015-12-13 21:53 | 歴史 | Comments(0)