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自然と歴史
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自然の中に歴史がある

by kwsan
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富雄川3(芝)

1.富雄川(芝地区)
 芝地区を流れる富雄川は、国道163号線拡張工事のため、昔の面影はなく、農協前の橋付近のみ面影が残り、下流は川底が深く広くコンクリート化された両岸が続く。砂防堰は農協前と芝橋の下流数十mの所の2ヶ所に設けられ、流れは緩やかである。西光寺橋付近までの工事は早く終わったのか、川底には雑草が繁茂し、川辺には、鴨やシギなどが見られる。現在(平成28年10月)は高山大橋から富雄方面まで富雄川両岸道路は2車線となり西側(高山方面)は上り、東側(富雄方面)は下りの一方通行となっている。

 富雄川に流れ込む流れは、天保絵図に稲葉(現在は稲葉と奈良口が合併して稲奈と呼ばている)の頂からの流れが一ヶ所みられる、流れは現在も同じである。稲奈地区内の流れは途中から暗渠になっており、富雄川に接続する部分は、対岸から確認出来る。元々此の地区は、深い谷が少なく、丘のような地形が続き、湧水の流れが少ない地形であったと考えられる。

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    天保絵図に描かれている稲葉の流れ、富雄川の接続用の暗渠の出口

2.橋
 現在の橋は、農協前の橋(名前知らず)、奈良口橋、高山大橋、芝橋、西光寺橋、西向橋、鵄の橋、が架けられている。
天保絵図には2つの橋が描かれており、大和国町村誌集には「芝橋」「滝のはな橋」が記載されている。奈良口橋、高山大橋、西光寺橋、鵄の橋、は富雄川護岸工事と共に新しく架けられた橋である。

 平成26年の災害で農協前の橋は、流失したが、その後、修復された。この橋は元々農道だと思われる。天保絵図ではその付近まで道があるが、橋は描かれていない、大和国町村誌集にも見当たらない事から川面に掛かる丸太の橋だったとも考えられる。

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              農協前の橋(名前知らず)

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             新しくなった芝橋

 芝橋は、現在の芝橋が出来るまでは高山大橋近くの場所にあって、地元の人の話では現在の宮方橋に移転したとも聞くが定かではない。現在の宮方橋が掛かっている場所は、戦後、川面の近くに二枚の板が渡された簡単な橋だったと言われている。

 西向橋は天保の絵図に描かれているが、絵図には名前は記載されていない、江戸期、西向橋は芝から白谷、南田原へ抜ける主要道路であったとことが天保絵図から読み取れる。元々この橋は本道路より下に架かっており川面の近くにあった。護岸工事と供に道路と平行に架けられた。
「滝のはな橋」については不詳。

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              新しくなった西向橋

3.芝地区
 芝地区は高山の一番南に位置して、南に上町、西に南・北田原町、東に鹿畑町、北は宮方地区に隣接する。「稲葉」の名が見られるのは興福寺雑役免帳(延久2年 1070)で、「芝村」は明暦1年(1655)の法楽寺文書(高帳)に見える。
 芝地区も宮方地区と同じように「坪」、「里」などの地名が見当たらない事からで条里制村落でなく大化の改新以前に既に村落は存在したと考えられる。
 現在の芝地区は、山田、稲奈、河原、西向、若葉(新しく出来た地区)の自治地区で自治会が構成されている。

 芝地区は江戸期には、郡山街道(郡山-高山芝―傍示)が南北に通り、東に一条街道から平城に至る、また一条街道から伊賀街道にもつながり伊賀上野に至る、西に向かえば北田原を通り清滝街道から四条畷(明治頃は甲司村と言った)に至る、また、西向橋を渡れば南田原をへて古堤街道、善根街道などに接続、東大阪、大東市に繋がった。
以上のように各方面に繋がる主道路の中間地点であったことは、天保絵図からも判る。

 昭和の初め頃まで、芝橋付近には色んな商店や旅籠が並び高山地区の歓楽街の一つでもあった。大軌鉄道(現在の近畿日本鉄道)が出来た頃から、地元古老から聞いた話であるが、芝には馬車タクシーがあって、タクシ-は芝から富雄駅まで運用された、馬小屋と馬車置き場が、理髪店があった付近にあったと聞く。その後、馬車から自動車に代わったが、どんな人物が利用したのだろう。又明治の頃、芝在住の医者の往診(高船、打田、等の遠方)は馬で行われていたと生駒市誌に紹介されている。

4.天満神社
 稲奈垣内の森に、南向きの52段の石段があり、石段を登りきると右側に高さ50cm程の石柱に「発起奈良口組合 大正5年」の銘がある。
「52」となる数字にしたのは何故か、52段と言えば、奈良さるわ池に繋がる石段と同じ段数である、大乗仏教において仏道修行を行う過程で、52の階梯があると言われている、その数と等しく最上階位が妙覚である。こんな事を考えて造られたとは思えないが。

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天神さんの石柱(発起奈良口組合と読める)

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      天神さん(階段を上がると鳥居・灯籠・神殿が見える)

 鳥居をくぐると境内、神聖な場所に入る、左側に手水鉢が置かれ、すぐ横に灯籠があり、中央に社殿が鎮座し、ご神体の菅原道真公が祀られている、社殿には「天満社」の札が掲げられ、灯籠には「金毘羅大権現(注1)文化11年(1814)」と、鳥居には「明治11年10月(1878)」と刻まれている。苔むした手水鉢には「水奉」の文字が見えるが、これ以外、苔に隠れ確認出来ない。
 社殿東側後方の木々が茂った部分に、最近建設されただろうか、携帯電話のアンテナが、空高く聳え、天満神社の目印となっている。

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         天神さんの灯籠(金毘羅大権現と読める)

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              携帯電話のアンテナ

 由緒には「本社創建は文政元年2月堂山民有地に観修神守は無之信徒交番を以て祭典を行い来たり」伝々、要約すると、この神社の創建は文政元年(1818)2月に小字堂山(注2)の民有地に分祀した、神主は置かず信徒交代で祭典を行ってきた。
 又一説では、この神社は元々法楽寺で祀られていたが、明治の神仏分離令の廃仏毀釈の影響を受けた際、この土地に移され、創祀されたと伝承されている。これについては資料がないので定かではない。由緒の通り境内は個人の所有地となっている。

 天神祭は稲奈垣内民で8月25日に行われる、当日、垣内の当番は境内の清掃と照明等の準備、S家(土地所有者)当主は、S家に集められた供物と神饌を御供えする。
 旧街道には天神祭りの提灯の灯りも目に付く、午後7時前になると、垣内民が三々五々境内に集まり、個々にお参りが行なわれ、お参りが終わると神殿の前に組頭、自治会長、S家当主、が並びその後に垣内民が続き、高山八幡宮宮司のお祓いが行われ、続いて玉串の奉納が行われ神事が始まる、神事が終わると、集会場に集まり直会が行われる。御供えは全て集会場に持ち寄り垣内民に分配される。

 注1 金毘羅大権現とは薬師如来の12神将の筆頭神、宮比羅大将のことでガンジス川に棲息する鰐を神格かした「クンビーラ(マカラ)」と言われている、水に縁があり海難、雨乞の守護を司る。
 灯籠には「金毘羅大権現」の銘があることから、明治の神仏分離令により、何処かで祭られていた、金比羅大権現が廃仏毀釈の影響を受け、不要となった灯籠が、ここに移転されたものではないか、又鳥居には「明治11年」の銘があることから之も何処かで使用されていたと私考する。
 注2 「堂山」という地名は、その昔、何らかのお堂が建てられていたので「堂山」と呼ばれる様になったと私考する。


5.稲葉の権現さん
 稲葉垣内の杜さんは垣内の入り口付近にあって、垣内民で祭祀され、由緒は不詳である。
 正面左の鳥居前に1m程の石柱が立っており、鳥居をくぐると右側にも1mあまりの石柱が立っている、その数m先には、御供えを置く石の台が置かれ、両脇に、石造りの花立、正面左の花立の後に火袋のある石柱が立っている、正面には以下の板碑が列ぶ。その奥は大きな木が聳え立ち、その根本付近にご神体が祀られていると教えられたが見つけられなかった、その向こうには民家の建物が見える。
左(北側)の空き地にはこぢんまりした社、灯籠、手水鉢、が見えるが、これらは個人の持ち物で権現様とは関係がない。右側(南側)には畑がある。

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      稲葉の権現さん、正面に板碑、西国33ヶ所礼拝碑が見える。

6.権現さんの板碑
○ 正面には3基の石造物が列びその後にお地蔵様が隠れている。
 お地蔵さんの年代や銘については不明。
○ 正面左には、室町時代と思われる板碑が祀られ、種子は、はっ きり判らないが「阿弥陀如来」ではないだろうか。
○「西国33ヶ所礼拝碑」には「種子 奉納西国33ヶ所 寛文○ 年8月18日 同行12人」の銘があり 種子は11面観音と思 われる。
○「西国33ヶ所礼拝碑」には「種子 奉納西国33ヶ所順礼 天保 8天 10月18日(1837)」の銘があり、種子は勢至菩薩 であろうか。
○ 鳥居には「天保10年亥9月吉日 施主 芝村中(1839)」 と銘がある。
○ 花立には「芝村中」の銘が見える。
 鳥居及び花立は「芝村中」とあることから同時期に建立されたと私考する。
 西国33ヶ所礼拝碑は元々此所に祀られていたものでなく何処からか持って来られたのではないだろうか、また鳥居や花立はそれらの石碑より後に建てられたものと私考する。

祭りは7月23日午後7時から行われ、直会は南側の空き地(現在は畑)で行われていたが集会場が出来た頃から集会場で行われるようになった。


7.しるし墓
 稲奈垣内の民家の裏山に無縁仏の一群があり、その中には江戸初期を思わす碑があるが、個人の所有と思われる。


8.西光寺
 山田垣内の山の中腹にあって、法楽寺末寺、真言宗新義派のお寺で御本尊は地蔵菩薩である。明治11年には小学校を設置された経緯もあり、歴史を伺わせる。西光寺が文献に見えるのは法楽寺文書の金剛界念誦私記(寛文元年 1661)である。
 明治に地元の旧家が作成した文書によると、宝暦9年(1759)の釣鐘(直径65cm)、安永2年(1773)の鰐口(直径27cm)が存在したと記されている。
 和州添下郡高山村差出帳(明和5年 1768)には東西15間/南北15間の除地があったと記載されている。
 西光寺は今から350年以前に創建され、面積は8畝以上の広さがあり釣鐘や鰐口があったことが判る。しかし、由緒は不詳である。

 お寺の入り口には、小さな地蔵屋形があり、その中に頭部欠損の道標地蔵が祀られている、「道標地蔵立像」には「右 いが  左 かたの」とあり、「道標地蔵」には「右 きづ いが  左 大坂」と読める。これらの地蔵尊は、芝橋のたもとに建てられていたものであろうか。
 東側の庭には33体の観音様が祀られ、本堂前には「自然石種子碑」がある、地元の人は馬頭観音と呼んでいる。
 此所は住居となっているため個人保護優先し写真は割愛する。

芝地区には上記以外にも墓所、石仏など、多く史跡が存在する。今後の調査課題とする。


参考文献
大和国町村誌集、祖霊と聖霊の祭場(高田照世著)、
高山文化研究会資料 天保14年絵図(天保絵図)、
北倭村誌、生駒の祭礼(生駒市教育委員会)、
生駒市石造文化財 生駒谷(生駒市教育委員会)、
生駒市文化財調査報告書第20集(生駒市教育委員会)、
生駒市石造遺物調査報告書(生駒市教育委員会)、
生駒市誌(生駒市教育委員会)、
日本大百科全書、各種辞典、高山地名考(山崎清吉著)、
和州添下郡高山村差出帳(明和5年 1768)、
高山村社堂建立修覆々中諸事年代記(明治5年 1872)、
生駒北小学校創立百10周年記念誌(生駒北小学校)。





# by kwsan | 2017-02-05 11:39 | 歴史
寺請け証文 5

5.「寺請け証文」の内容
 法楽寺に保存されている220余件の「寺請け証文」の内、120余件の内容が紹介されている、それを分析したのが図28である。



 図28における「寺請け証文」の内容は、縁談が全体の約60%を占める、次に多いのは養女・養子・その他と続く。
グラフから判ることは、全体の60%が女性の「寺請け証文」である、このことから此の時代は男性中心の時代であった事を顕著に表している。
その他は、縁談の破棄や送り戻し等である。
 縁談の中には母親同伴で娘が嫁入するとか、50代の母親が子供を連れて再婚するとかの、「寺請け証文」も見つかっている。此の時代、女性一人では生活できなかったのであろう。30才代や40才代の女性の縁談も数件ある、これらは再婚と見て良いのではないだろうか。



図29は、養子・養女となった子供達の年齢を示す。
緑が男子、茶色が女子で数字は比率(%)を表す、これによると養子/女として出されるのは2才迄に全体の50%が、大きくなっても4才ぐらい迄に出されることが判る、男子よりも女子の方が貰われていく確率が高い。男子は働き手として残ったのであろうか。
これらの事が行われる理由は、跡継ぎがない場合や、家が貧しく育てられない場合等が考えられる。



 養子・養女の件数を元号別に表したのが図30で、表示されている内容は、元号、件数、比率(%)の順に列んで表している。江戸時代に何度となく発生した飢饉の影響について見ると、天保時代の件数が1番多いが、飢饉が発生した前後の「寺請け証文」はばらばらで纏まっておらず影響はないと思える。
次に嘉永時代の件数が多い、特に嘉永2年と4年の2年間に合計7件の養子/女の「寺請け証文」が発行されている、此の時代には飢饉が発生したと言う事実は確認出来ていない、原因については不明である。
他の年代に纏まって「寺請け証文」が発行された経緯はない、試料数が少ない為、正確な判断はできないが、これらのことを考えると飢饉の影響により養子/女の「寺請け証文」が発行されたとは思えない。



纏め
 「寺請け証文」が利用された主な理由は、婚姻に関する事が殆どで、子供が貰われていく養子・養女は4才までが大部分を占め、2才以下が特に多く、その大半は女子である。飢饉により子供が貰われていく事も考えられるが、試料が少ないためデーターとして取り出せなかった。

「寺請け証文」について、色々と分析したが試料が満足行く数量でないため、正確さをかく部分もただあるが、方向性は示せたと考えている。今後の発表される文献に期待したい。これを以て「寺請け証文」の分析は終わる。



参考文献
 生駒市古文書調査報告書Ⅲ   生駒市教育委員会


# by kwsan | 2017-01-27 14:31 | 歴史
「寺請け証文」4 続き

 図16~27は、図5の件数の多い地域、奈良市、生駒市、枚方市、精華町、京田辺市の宗派別証文件数と宗派別寺院数を比較したものである。




図16・17は奈良市の場合。融通念仏宗寺院、浄土宗寺院、浄土真宗寺院、真宗寺院が殆どを占め特に融通念仏宗寺院は33%を占める、証文について同じ事が言える。




図18・19は生駒市の場合。融通念仏宗寺院は全体の70%であるが証文件数は全体の78%と1割ほど証文件数の比率が高くなっている。図8―1から判るように高山と傍示、上、鹿畑とは大きな街道が通っているため縁談等が特に多かった思われる。




図20・21は枚方市の場合。浄土真宗寺院は全体の53%であるが証文件数は70%と高くなっている。浄土真宗の人口が特に多い地域といえる。




図22・23は精華町の場合。此の地区も真宗寺院と浄土宗寺院のみで、浄土宗寺院が83%を占めるが、証文の浄土宗は半分になっている、前回述べたように高山町と精華町東畑はごく近い位置にあり住民の行き来が多く縁談等が頻繁に行われていたと考えられる。その為、東畑の専光寺だけで40%の証文が高山町に送られている。




図24・25は京田辺市の場合。京田辺は真宗と浄土宗以外の寺院は見当たらない、浄土宗の寺院が71%と多く証文件数も79%と多くなっている。




図26・27は京都市を示す、京都市は色々な宗派が混在しているが浄土真宗寺院と浄土宗寺院の2寺院で50%を占めるが真宗寺院がない。


纏め
 京田辺市、精華町は、真宗寺院、浄土宗寺院、に限られ、浄土真宗寺院はない、生駒市は融通念仏宗寺院が多くを占め、奈良市も宗派の違う寺院が多いが、真宗寺院、浄土宗寺院、浄土真宗寺院、融通念仏宗寺院が目立つ。
枚方市は浄土真宗寺院が圧倒的に多く、京都市は色々な宗派が混在している、しかしこの2地区は真宗寺院がは何故か見当たらない。


参考文献
 生駒市古文書調査報告書Ⅲ   生駒市教育委員会


# by kwsan | 2017-01-22 16:06 | 歴史
「寺請け証文」4

4.「寺請け証文」の作成寺院の宗派
 法楽寺に現存する、寺請け証文を作成した寺院は130余寺院に昇、それらの宗派を調べたのが図10である。宗派の多い順に並べると、浄土宗寺院、浄土真宗寺院、真宗寺院、融通念仏宗寺院で全体の7割を占める、その他とあるのは廃寺等で宗派が不明な寺院を示す。
 図11は、現存する証文の依頼主の宗派を示したものである、図10と同じく浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、真宗、で全体の8割を占める。
 証文の依頼主の件数や寺院数も浄土宗・浄土真宗の順に多く、次に、真宗と融通念仏宗と比較すると融通念仏寺院数が少ないが証文の件数はほぼ同等、これは融通念仏宗の人口が多いと考えられる。






 図12~15は、図10における寺院が、どの地域に分布しているかを調べたものである。


 図12は浄土宗寺院の分布を示す、京都市が全体の約4分の1を占める、次に京田辺、精華町、枚方市と続き、此の4市で全体の60%以上を占め、京都市・京都府南部及び北河内地方、特に大阪府東部の生駒山に面した地域に広く分布していることが判る。



 図13は浄土真宗寺院の分布を示す、特に高いのは枚方市で次に、大東市、東大阪市と続き、此の3市で全体の約50%を占め、全体的に見ると大阪府東部に集中し、北河内地方に多く分布している。



 図14は、真宗寺院の分布を示す、特に多いのは門真市・大東市で、次に京都市と続く、此の3市で全体の約60%を占める、真宗寺院は京都府南部から北河内にかけて多いことが判る、特別多いと言う地域はなく北河内や京都府南部にも広く分布している。



 図15は、融通念仏宗寺院の分布を示す、生駒市、奈良市とで全体の80%を占める。特に生駒市は全体の60%を占めおり、現在でも富雄川流域・生駒谷に集中して分布している。


纏め
浄土宗寺院・真宗寺院は京都市から京都府南部・北河内方面、特に生駒山の裾野に広がる地域に広く分布、浄土真宗寺院は高山町と接する(生駒市以外)高山町に近い地域に広く分布している、13図からも変わるように、枚方市は特に多い地域である。
融通念仏宗寺院は奈良県北部、特に生駒市に多く分布している。
 宗門壇那請合之掟に、不受不施派の日蓮宗に対しては幕府は「寺請け証文」の発行を禁止をしていたが、法楽寺文書の中に見える、文面等については未確認であるが、今後の調査の対象としたい。

参考文献
 生駒市古文書調査報告書Ⅲ   生駒市教育委員会




































# by kwsan | 2017-01-22 15:49 | 歴史
寺請け証文3

3.「寺請け証文」の発信地は何処か?


 法楽寺には200余件の「寺請け証文」が現存する、その発信地について顕彰する。



 図5のグラフは、発信地を地域別に現したもので、地元の生駒市が41件と一番多く、全体の約5分の1を占める、(但し、高山町から送り出された件数も含む)、次に枚方市、京田辺市、精華町、京都市、奈良市、と続く、特に枚方市、京田辺市は村切りなどがあり、合併を重ね地域が広くなったので、件数も多い。
 遠くは岐阜県(農州関ヶ原の宿)・石川県(能州川嶋村)・兵庫県加古川市(播州加古郡別符村)等が見られる。これらの地域と高山町(和州添下郡高山村)とはどのような接点があったのだろう。今では車で数時間の距離であるが、その当時は、道路もなく、道中の危険もあり、多くの日数を経てやってきたであろう。これらの3件は全て縁談で石川県が男性、他は女性である。これらの末柄が見つかれば先祖の話を聞いてみたいものだ。


 図6は、発信地を府県別に表したもので、大阪府が全体の5分の2を占めている。奈良県、京都府は、ほぼ同率、大阪府東部が多いのは高山町に接する面積が広く、接続される街道(清滝街道、群山街道、磐船街道等)も多く庶民の交流が盛んであったと考えられる。


 図7は、図6から大阪府のみを取りだして、大阪府の地域を比率で表したものである。
 大阪府の中では枚方市が4分の1を占めている、次に門真市、大東市、交野市、四条畷市と続く。
枚方市、交野市はカイガケ道や群山道を、門真市、大東市、四条畷市等は清滝峠道を、経て高山町への行き来が盛んだったと思われる。


 図8は、図6から奈良県を取りだし、奈良県の地域を比率で表したもので、生駒市が半分以上を占めている、次に奈良市、郡山市と続く、奈良市との交通は一条街道を通っての行き来が盛んだった。
奈良市(南都)へは奈良時代の古くからの接点がある、地元の豪族鷹山氏は奈良市の窪之庄との繫がりもあり、それらの影響もあって比率も高くなっていると考えられる。郡山については群山道を通ったと思われるが古くからの接点は見つけにくい。


 図8―1は図8の生駒市の地域を表す。これによると、富雄川沿いの谷である上村や傍示村の比率が高く、生駒谷の比率は少ない、鹿畑村や南田原村は富雄川沿いの谷ではないが、高山村に接しているので比率も高い。グラフの中で、高山村とあるのは、高山村から出ていった比率である、図8-2にその内容を示す。


 図8-2の件数(9件)は控えとして現存しているもので、資料としては少なく正確とは言えないが、高山村から出て行った地域は、主に東西に別れ、南北には見当たらない。


図9は、図6から京都府を取りだし、京都府を地域別に表したものである。
京田辺市、京都市、精華町は同じ比率である、精華町との行き来は今も続いており、図8―2からも判るように東畑と高山町との縁談は特に多い。

纏め
全般に送られてくる地域は山間部が多く、特に枚方市、京田辺市、交野市、精華町等がそれに当たる。
それらの地域は、働く田畑が限定され、また開墾する土地も少なく、分家しても生活するための田地は、確保できなかった、そのため、生活するには、生まれた地域から出ていくしか方法がなかったと考えられる。出て行くにも遠くへは行けないので、隣接する地が、選ばれたと考えられる。



参考文献
生駒市古文書調査報告書1~4  生駒市教育委員会
生駒誌史            生駒市教育委員会




# by kwsan | 2017-01-18 20:53 | 歴史