自然と歴史
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富雄川 1

 高山地区内を流れる、富雄川は、一級河川として国の管理下にあり、源は高山溜池となっている。昔は「瀧
川」(たきがわ)と「美ノ原川」の合流地点から下流を「富の小川」(富雄川を意味する)と呼ばれいた。
                   
                     石橋の向谷橋 
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 現在、溜池から美ノ原川の合流点までの地域を、地元では、九頭神垣内又は九頭神谷(クヅカミダン)と呼び、川を「九頭神川」と呼んでいる。何時頃から呼ばれる様になったかは定かではないが、明治10年頃の調査資料では「九頭神川」を「瀧川」と記載されている所から、それ以後と考えられる。

                      瀧川(九頭神川)
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 美ノ原川の源は京田辺の高船、打田との境界に聳える山が分水嶺と考えられ、途中、色々な谷の流れと合流して美ノ原川となって富雄川に合流している。
                   美の原川
              

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 富雄川について、法楽寺縁起に「泉州堺北へ落ちる大和川龍田川富の小川皆一流三川の名所にて此の三つの川水上みなり法楽寺より30町北二丈餘の瀧ありこれ川の源初なり・・・」伝々。
 富の小川(富雄川)、龍田川、大和川は一つ川となって泉州の堺に流れ落ちる、その源は法楽寺北30町にある二丈余りの瀧である。
 瀧と思われる場所は、高山溜池の堤防の下、底樋出口付近と考えられる、溜池の水口は、瀧と云われている場所ではなく、ここは山を削り新たに作られた場所である。

                     高山溜池の水口

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 富雄川と「棚田川」の合流地点より上流の街道は川添にあった、それを物語るのが「向谷橋(ムカイタン橋)」である。
向谷橋は石橋で水害には強いが、川添の道路は、豪雨等の、影響を、受けやすく度々通行に支障が出た、その為、街道は新しく建設され、今の市道7号線になったと伝えられている。又、川添の家並みの一部は「坊田」から、地震の影響で井戸が涸れ、水に不自由なため移住した、その後発展し今の家並みになったと云えられている。
「坊田」には空井戸が現在も数基残っており、集落があったことを物語っている、ただ集落が何時頃発生したのかは定かではない。
 江戸時代の「坊田」は、本願寺の寺領であった、それを示す史料として「譲状之事」(正徳6年1716)が法楽寺に保存されている。寺領は状の内容から山林及び田地であって集落は確認出来ない。


 和州添下郡高山村惣絵図(以下、天保絵図と言う)の大北地区周辺では「古道(黒添池付近からタンダ橋まで)」で紹介した「棚田川」と、「奥の谷(オクンタン)」、「高谷(高谷川)」、「和田奥(前田川)」、「奥山」(鳥ヶ谷)の4個所の谷からの支流が描かれている。現在もこれらの支流は確認出来る。
「鳥ヶ谷」は地名として残っているが、近世になって開墾され田地に変り、川の面影はないが、水路の形態で残っている。その他は富雄川に対して大きな開口部が見える。

    高谷川と富雄川合流点(上)             前田川と富雄川の合流点(上)
    奥野谷から之流れ(下)                鳥ヶ谷からの流れ(下)

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 天保絵図及び明治10年頃の調査資料によると、大北地区の富雄川に架かる橋は、高谷橋、大門橋などが記載されている。
高谷橋は、元々市道7号線より、はるか下の川面に架けられ、 石柱を、並べたものであった。橋は昭和40年頃迄、原型をとどめていたが、市道65号線建設時に撤去され、その一部が残されている。
 大正から昭和になると、車時代が訪れ、アーチ形の橋が、今架かっている辺りに建設された。鹿畑地区の住人の設計と聞く、橋は川崎橋と呼ばれ、橋の名の由来は不詳。
市道65号線建設の折、アーチ形の橋では狭すぎるため、取り毀され現在の橋となる。

         川崎橋                      高谷橋の残石

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 大門橋は高山八幡宮前に架かっている橋で、石段を川面辺りまで降りたところにあった。市道7号線の建設時に石段は撤去されたが、現在、その一部は、大門橋の南側の石段に再現されている。この橋が架けられた理由として考えられるのは、富雄川より西の地域人達が八幡宮にお参りするのに遠回りしなければならない、これを解消するためと考えられる。現在、大門橋が取り外された、後高山宮橋に名前は変わっている

                    大門橋(現 高山宮橋)
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 八幡宮からこの橋を渡り西に進むと「和田」、「前田」を通る旧道に入る。大門橋から西に続く道を境にして墓地の場所が決められているが、前田川を境にして墓地を定めているとも聞く。この理由は「昔、死者を葬るとき、八幡宮の前を葬列が横断することは不浄な事と思われた」と言われている。
 有井山家文書、永代向露寺記録(元文3年1738)には「和州添下郡高山村向露寺 元来 庄田村 大北村 和田村三ヶ村之 墓所也」と記載されている。「大北村」とは「奥の谷」「大庵」「井上」を指す。
以上のように向露寺墓地を利用出来るの庄田村、大北村、和田村であると記録され、これらの地域は前田川より北側に位置する集落である。
それでは南側の集落の墓地は、何処にあるかというと、久保地区の無縁寺にある墓地になる。


 大門橋が架けられたのは向露寺墓地や無縁寺墓地が開基する以前と考えられる、向露寺墓地は元禄弐年(1689)、無縁寺は寛永15年(1638)の開基であるからそれ以前と考えてられる。


「大門」は「藤本寅雄」氏によると、此所は高山の中心部、中村に位置していて行政的位置が高山八幡宮のそばにあって核的存在であり、「カイガケ道」「郡南街道」「天王道」と交通上要衝の位置にある事から関所があった、鎌倉時代にはこうした位置に関所を設けて土地の豪族が関銭を取っていた。と綴られている。
このことから藤本氏は関所説を唱えている。


 私見であるが、現在の参道は西に向かって延びているが、鎌倉時代の参道は、真っ直ぐ南の出店まで続き、出店付近から八幡宮に向かって緩やかな昇り坂であった、参道の何処かに大きな門があり、その両側には家並みが続いていたと思われる、門は雷か戦火などにより焼失し、その後、再建されず地名のみが残ったと考えられる。


 川縁に作られた遊歩道は、平成になって造られたもので、当初の計画では、竹林園辺りまでとなっていたが、途中計画変更があり、工事は終了している。
竹林園への橋は竹林園と同時に造られ、竹林園専用となっている。

       鷹山大橋(竹林園前の橋)                富雄川の遊歩道

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 法楽寺前の橋は天保絵図及び明治10年頃の調査資料では確認出来ない。私見であるが小学校が、今の所に明治44年に八幡宮境内から移転した。建設はその頃ではないだろうか?。北小前の歩道橋は市道7号線開通後の建設。
      法楽寺前に架かる橋
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 久保地区の出店橋は古く天保時代には既に使用されていた、ブログ「古道(中村周辺)」で紹介した通り、この橋は中村地区へ入り口でもあり、高山地区の交通の要衝に架かる橋でもあった。出店橋付近には、集落的なものは無く、数件の人家のみであったと云われている。

    出店橋
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 「出店」と言う地名は、辞書によると、「店」は「見世」とも表され、人が集まる所に棚を置いて品物を売る所と説明されている、又は出見瀬と表すと浅瀬で流れが速い川辺が見える所に出られる場所、とも取れる。出店は古き時代より交通の要衝でもあり前者の意味であろう。


天保絵図には、久保地区内に流れる、中村川があり、有井山家文書に砂防工事の資料が残され、大雨などによる災害が多かったことを物語っている。その源は「ドキツカ」用水池付近の精華町東畑との境界に連なる峯が分水嶺と考えられ、途中、幾つかの谷の流れと合流して出店橋付近で富雄川に合流する。

     正面が出店橋で右の開口部が中村川
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 出店橋から中村川を越え山手に登っていくと北面の斜面に集落が続く、この一帯を「坊向(ボノカイ)」(坊の向村)と云われ、明暦元年(1655)頃には、既に独立した集落があった事が、法楽寺文書「高帳」から読み取れる。斜面を登り詰めると無縁寺とその墓地がある。


 富雄川と中村川の合流付近で「富士垢離」なる風習が行われていたと云う、それは「維新ノ頃迄行ハレタル敬神的風習ニシテ毎年8月中5日又ハ一週日ノ間篭り所ニ起臥シテ家ニ帰ラズ。身ニハ白衣ヲ着ケテ精進潔斉シ水辺ニ七五三縄を張リ(砂州ヲ穿チ屈曲シテ水ヲ導キタリト)付近ノ高所ニ弊束ヲ立テ、下リテハ水垢離ヲ取り、上リテハ弊束ヲ拝シ南無神変大権現ト唱フ・・・・出店橋ノ下ハ即チ其垢離ノ場所ナリ・・・」伝々、と生駒市誌(北倭郷土資料)に記載され、又橋の下には浅間塚という高塚も作られていたと云われている。江戸時代には高山地区の川の各所で、この風習が行われていたとも、記載されている。

 出店橋付近には、江戸時代から明治に架けて、切支丹を取り締まる為の「高札」が立てられていたと、有井山家文書に残されている。出店橋付近は、交通の要衝でもあり、色々な人が行き交うため、人目に付きやすかったのであろう。
 高山地区には寺請証文が300余通残されている、その内75%程が法楽寺に保存され、残りは傍示地区の個人宅で保存されている。その他庄田、大北、久保の各地区にも数件確認されている。

 寺請証文とは高山地区内に婚姻、丁稚、養子(女)等で移住する場合、戸籍が切支丹で無いという証明で、檀家寺が作成した「証文」である。遠くは岐阜県や石川県からの「証文」も見つかっている。

 天保絵図には「ミノ口」から北中の敷地内を通り流れる川が描かれているが、確認出来ない。今後の調査に待つ。

出店橋から50m程下流に、斜めに架かる橋は国道163号線から、北方面への迂回路として建設された道路に架かる橋である、道路は土地買収にかかる問題で未完成(平成28年3月現在)のため使用されていない。

       未完成の道路に架かる
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参考資料
 生駒市誌、生駒市古文書調査報告書、法楽寺文書
大和国町村誌集巻2、北倭村誌、有井山家文書、
ふるさと生駒の地名と私 藤本寅雄著(非売品)
和州添下郡高山村惣絵図、生駒北小学校創立百十周年記念誌、


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# by kwsan | 2016-03-11 21:05 | 歴史 | Comments(2)
伊勢
大和西大寺から乗車10:33、鳥羽12:16着、100分余の久しぶりの電車でした。
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鳥羽駅
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イルカのショウを見学、展望谷登るも風強く、撮影どころではなかった。
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翌日の観光は女性ドライバーでした。
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猿田彦神社も参拝、午後、内宮に参拝 橋を渡るのも大変でした。 
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# by kwsan | 2016-02-29 11:53 | その他 | Comments(0)
奇怪な体験

今年になってから不思議な事件が身に起こる。

その一つ
 戦国時代地元を治めていたという、高山氏の建物跡に石碑があると、聞いたので山の中を歩き廻ったが見つからず、友人を呼び出し一緒に探すと石碑は見つかり、雑草に隠れその全容は判らないが、石碑を手で触れ文字の感触を確かめ、文字が刻まれている事を確認した。次に愛宕山灯籠、二月堂、オダイッサンのお堂跡など見ながら、手で触れたりして帰宅。夕方になると右肩が「こり」はじめ、何とか直そうと肩をたたいたり、もんだりしたが、おさまらず。
 就寝前は何時も、経を唱えるのが、ここ15年来の習慣になっている。
何時もの通り、仏壇に向かって唱え初め、半分ぐらいのところで、肩の痛みが突然消えた。不思議なことがあるものだと感じてそのまま忘れてしまった。

その二
 昨日親戚で不幸があり、火葬場での出来事であるが、火葬された遺体が部屋の中央に置かれ、骨拾いが始まる迄に、方法について、係員から説明がなされているとき、遺体の足下付近で立っていると、右足に何か異変を感ずる、右足を少し浮かすと、右の方へ、足が何かに、吸い取られるような感じで引っ張られる、足を戻し地に付けると、何にも起こらないが、右足には違和感を感じる、足を浮かすと、同じように引っ張られる。何度戻しても同じ事が起こる。不思議なことがあるのだと思いながらも別の場所に移動したら、その現象は起こらなくなった。何かの前触れだろうか。
違和感とは痛み、かゆみ、等の五感とは違うもので文章や言葉では説明できない。
 こんな経験者はありませんか、コメントあれば幸いです。



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# by kwsan | 2016-02-24 19:58 | その他 | Comments(2)
古道(黒添池-タナダ川周辺)


交野市寺の住吉神社からカイガケの道を登り詰めると大阪府民の森に着く。

 昔、寺村(現、交野市寺)の親戚に招かれ、沢山のご馳走とお酒をよばれ、帰る頃にはすっかり日が暮れてしまった。
裏藪にあった黐の幼木を「おうこ」の前に、ご馳走を「畚」に入れ、後に吊し、すたこらすたこら、カイガケの道を登り、現在の府民の森付近にさしかかった時は、すっかり夜も更けてしまった、なにやら後の荷物が重く、引っ張られる感じがする、後ろを振り返り提灯で照らすも何も見えない、暫くは何事も無いが、又後から引っ張られる、何度か繰り返すので、腰を下ろし、休憩していると、暗がりの向こうに微かな灯りが見える、「さては、化かしに、きよったか」と、言いながらご馳走の一部くれてやった。この付近には、昔から狐が住んでおって、旅人にいたずらすると聞いている、急いで前後の荷物を入れ替え、その場を急いで立ち去る。
黒添池にたどりついた頃には、追って来る物はいなかった。そのとき持ち帰った黐の幼木は幾多の歴史を見聞きしたであろう、今は大木になって庭で静かに余生を送っている。と古老から聞いた事がある。
 
府民の森の中を通り、生駒市獅子が丘住宅街の西端にでる、坂道を下ると、木々の茂る森に入り、森を抜ける頃、小さい池に出会う、「アミジョ池」と地元では呼んでいる。
獅子が丘が、開発されるまでは、奇麗な水であふれ、水深は判らないが、池の底が広がり神秘な池に見えてた。
元々此所には、安明寺川があり、池の水は、黒添池への取り水とするため、川をせき止め安明寺池を造ったとされる、此所には「安明寺」というお寺があったことが、有井山家文書黒添池改修工事図面(明和5年1768)に見える。

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                かいがけの道(奈良県側)

 
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                  安明寺池(アミジョイケ)


「安明寺」についての文献は見つかっていないが、有山日記、大正4年10月19日と11月8日の項に「庵(安)明寺 まったけがり」とある。
寺の名が地名として残り、此所に寺があったことを物語っている。
(余談になるが、後の行に、「まったけは一貫目ほど取れた」とある、今から考えるとうらやましい話)

アミジョ池を過ぎると黒添池にでる。この池の歴史は有井山家文書に残されおり、図は、明和5年の黒添池改修  工事を、表したもので地区毎に、工事日程が決められている。
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               明和5年の黒添池改修工事日程計画


e0085845_16341077.jpg黒添池が完成するまで経緯は次の通りである。
寛永元年(1624) 築造工事着手、同2年工事竣工
宝永2年(1705) 黒添池はもと黒藏池と広称せり
東西205間(373m)、南北48間(87m)
享保17年(1732)「池面拡張の必要により池添なる字九頭神住百姓 嘉兵衛の田地を開掘したるに付き、
その代地として棚田川口の除地を合い渡す。」
元文3年(1738)黒添池並川添堤普請
明和5年7月14日(1768)大改修工事着手、
享和3年(1803)工事竣工。 (生駒市歴史年表より)






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旧道は看板辺りを下りた(現在は工場の敷地 通れない)


天保14年の絵図によると、黑添池を過ぎると「大谷道」に入る、旧道路沿いには畑等が耕筰されていたが、今は廃道となって通れない、現在は黒添池を過ぎると、大きく右に折れその先で左に曲がる。
直進すると道はタナダ川に突き当たり右に折れる。川向こうの森は「高山城跡」右手には向露寺が見える。絵図では、向露寺入り口付近で橋を渡り、東側の川添の道を、富雄川合流地点まで続いていた。現在その道はないが、部分的に昔の面影を残こしている。

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             現在のタナダ川 護岸工事が行われ昔の面影は無い


向露寺駐車場から川向こうの地域を、天保14年の絵図では「墓ノ谷(はかんたん)」となっており、本願寺文書や有井山家文書から文化年間には集落が形成されていたことが判明している。
私の考えであるが、「墓ノ谷」の由来は「向露寺」が開墓された以後、墓地の前の谷なので、呼ばれる様になったのではないか?。とするれば元禄時代以降の字名と考えられる。


 タナダ川(棚田川)の源は、黒添池に始まり、富雄川に合流するまでの1kmにも満たない短い川であり、流れ込む水は「みつわり」「大廣(おびろ)」「竜王山」等の谷であったろうと思われる。現在は大廣谷の大廣川のみ残っている。
 現在の大廣川流域には「大八丁池」「新池」などの大きな池が見られるが、元禄14年の絵図にはない、井上文書「高山村社堂建立修復々中諸事年代記」(明治5年)には記載されている。大廣川は現在も水量多く清らかな水が流れている。
大廣谷の入り口の碑には「道路改修紀念碑」裏側に「昭和9年3月、自大廣橋至新池 大廣地主連中建之」と彫られている。他に地主の名が多数刻まれている。

戦後大八丁池の西岸に岩場が有り、大八丁池の上の池から水を引いて、西光寺住職等が、23日のオダイッサンの日に滝行が、行われていたと云われている。参加した人達は、すべて他界しているので詳細は不明,聞く所によると、地元以外の信者が、多数いた聞く。
また、当時岩場には延命観音が祀られいた伝承があり、その延命観音は理由不詳だが現在向露寺に安置されいる。
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                  大廣谷  左見えるのが大廣川 


 現在、大廣川とタナダ川の合流点から、富雄川までの間、道路拡張のため、暗渠になっている。道路拡張前には二つの橋が有り、地元では、本願寺から来る橋を「地獄橋」、富雄川合流付近の橋をを「タンダ橋」と呼んでいる。しかし、天保14年の絵図には「地獄橋」は見当たらない、その当時の道は、棚田川の東側を通っており、向露寺付近まで橋はない。但し大廣橋という大廣谷に入る橋はあった、向露寺付近の橋を地獄橋と言うのだろうか?、それとも近代になって呼ばれる様になったのか?定かでない。

享保17年(1732)「黒添池拡張工事に於いて、棚田川口の除地を合い渡す」とあるのは棚田川と富雄川の合流付近であろうか。
タンダ橋は、寛政9年(1797)の有井山家文書「添証文の事」に「たん田」と言う地名が出てくる、この付近に架かる橋なので「たん田橋」と呼ばれたのでは、或いは「タンダ橋」は「タナダ」の「ナ」が訛って「ン」になったとも考えられる。由来に関する文献がなく、定かではないが、「たん田」という地名は江戸後期の古文書に散見する。

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         タナダ川と富雄川の合流点 (手前がタナダ川 向こう側が富雄川)


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            タンダ橋付近 (暗渠になっているため昔の面影は無い)



向露寺墓地の由緒は有井山家文書「和州添下郡高山村御墓所由来」に、
上分之墓(向露寺墓地のこと)
此の墓は本願寺山墓地、円楽寺山墓地を、高山字西車谷に墓移した、開基は和州片岡山(現 奈良県生駒郡王寺町)達磨寺、珠岩和尚で供養は元禄2年2月15日。と記載されている。
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                  向露寺と後に向露寺墓地が見える


 向露寺にはこれ以外に3通の由緒が残っている、いずれも明治以降の作成である、交野市史に紹介されているは、3通の内の一通である。
埋葬方法が、火葬から土葬に改葬されたこと、向露寺の建物が、傍示の向露寺谷から、移転したこと以外は、御墓所由来と同じ。
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                  和州添下郡高山村御墓所由来の一部



 珠岩和尚は、大北地区、大雄寺を開山した人でもあり、位牌及び石碑は大雄寺にある。位牌には「臨済正傳第35世當寺開山珠岩寳老和尚覚位」とあり、石碑には「當寺開山珠岩宝老和尚也」と刻まれている、向露寺文書には「開山向蓮社西譽善宗大徳」と記載され石碑、位牌はない。「善宗」は「禅宗」であろうか?。
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                大庵寺にある珠岩和尚の石碑



 太田勘右衛門の伝承について
「太田勘右衛門」は本願寺墓地近くに、住居があり、火葬場の燻煙に悩まされ、難儀していた、そこで墓地を移転すれば、燻煙から逃れると考え、墓地の土地を寄附した。と伝承されている。
現在「太田勘右衛門」家の家系は、途絶え墓地は荒廃し、無縁墓になるも、墓参の形跡ある。現在墓地の石碑は総て撤去され墓石のみである。

太田勘右衛門については、法楽寺文書「譲状之事(正徳6年1716)」に「証人 本願寺旦那 太田勘右衛門」と署名捺印した状が残っている。この頃、実在した人物で本願寺の檀家でもあった。
向露寺所蔵の由緒に、建物は傍示の向露寺谷より移転とある。
傍示地区に、向露寺の名が付く字名は、地図上に見当たらないが、由緒の内容から、その場所は「尺地」付近ではないかと想像する。
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 太田勘右衛門の墓地(今はこれらの石碑総て撤去されて石柱のみとなっている)


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               太田勘右衛門のサインと押印のある状


 向露寺の語源を、辞書で調べると、「骸(ムクロ)」又は「ムクロジ」という植物名が出てくる。
 「骸」とは首が無い遺体等が捨てられる場所、と説明されている。
お寺の名前としては考えられるが、少し違和感がある。
「ムクロジ」は本州(新潟、茨城以南)に生息する落葉高木、昔から寺社境内に植えられ、実は黒く堅い、羽子板のはねや数珠玉等に利用された。

お釈迦様の言葉に「もし、煩悩、業区を滅ぼし去ろうと欲するなら、ムクロジの実、百八個を貫き通して輪を作り・・・」伝々とある。
(「ムクロジ」を中国では「無患子、木患子、苦患樹、油患子」と表されています、日本の本草学者が間違って「木患子」を「モクゲンジ」に充ててしまった事が知られている。)

 私の考えでは、傍示の向露寺谷は「ムクロジ」なる植物の生息地で「ムクロジ」変じて「向露寺」となり地名になった。「向露寺」なる寺が存在していたとは考えがたい。
もし寺が存在していたなら木の名前が寺の名前になったとも考えられる。ただ、「ムクロジ」が「向露寺」への成り立ちは判らない。

 向露寺の川向こうの森には「高山城跡」があり地元では「城山」、タナダ川の上流の谷を「茶屋が谷」と呼んでいる。

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                  この道を進むと茶屋ヶ谷はいる


これらは、法楽寺文書「本願寺玄海律師後任に付」(元禄6年1693)と言う相続に関する状に「城山」「茶屋が谷」の字名が出てくる。元禄時代には、すでに地名として、一般化されていたのであろう。

高山氏の没落(天正5年、1577)後、本願寺から「城の茶屋」迄の峰続きの土地は、本願寺の領地であったと考えられ、高山氏の菩提寺は、円楽寺と云われているが、家臣や家来達の墓地は、本願寺ではなかったか。今後の調査に期待する。

 大廣谷北方の、小高い丘の集落が、逢坂(おざか)と呼ばれている。その後に聳えるのが「竜王山」、高山で一番高く高山地域全体を見渡せる位置にあり、わき出る水をせき止め造られたのが「竜王池」、天保14年の絵図にはすでに描かれている。余談になるが「竜王池」の近くに、高山溜池から、送水される水路「西幹線」が、通っている事も付け加えておく。

 「高田照世著 祖霊と精霊の祭場書」の一部を引用させてもらうと、竜王山は高山八幡宮の宮山であり、宮山には八大龍王が祀られ、水の神、雨乞の神とされている、旱魃時には、八大龍王から灯明を持ち帰り、祈願すると云う雨乞儀礼が行われた。祠の前には灯籠が有り「鹿守山八大龍王御宝前六月朔日、高山村、貞享五戊辰年(1688)和劦」と書かれている。(劦=州)
 鹿守山という公称は、竜王山の入り口に当たる地区が、坂の向こうは、神の領域である事を示す、逢坂という地名を持つこと、又むやみに、龍王山に近づいてはならないと、子供の頃諫められたという地元の伝承から、此の山が、いかに神聖視されていたかが察せられる、水を司る蛇神が、山に棲まうという、原初的な聖地信仰と仏教が集合し、この山中に八大龍王を祀り、竜王山と、称するようになった。
 宮山は5年に一度サイメンアラタメ(境界杭の確認)が現在も行われていると聞く。祠の場所については不明である。

参考文献
 生駒の古道、生駒市誌(有山日記)、法楽寺文書、 生駒市古文書調査報告書、有井山家文書、
 向露寺文書、井上家文書、「祖霊と聖霊の祭場」 高田照世著 岩田書院、
 「原色日本植物図鑑」 北村四郎・村田源著 保育社、ウイキペディア(ムクロジ)等、
 高山文化研究会資料(天保14年絵図)、北倭村風俗誌調、
生駒の歴史と文化(ハンドブック)、  星宿 第7号 朝日カルチャーセンター発行、

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# by kwsan | 2016-02-16 16:46 | 歴史 | Comments(0)
古 道(中村地区周辺)


生駒民俗会発行の「生駒の古道」高山・伊勢街道を歩きその土地の歴史を振り返る。
 

高谷集落との境界を越え中村集落に入る。表通りに出るまで人家と田んぼが続く緩やかな下り坂である。

 「中村」集落の字名は、法楽寺文書「高帳」(明暦1年 1655)に記載されており、当時、中村集落として独立していたと考えられる。
また、法楽寺文書 文化四年(1807)勧進帳には「中ノ」「出谷」「木挽小谷」「高見」「風呂谷」「芦谷」「小谷」「中」「井屋本」「長谷」「野神」「向井」の小集落が存在しそれらの上に「中村」があった。

「生駒の古道」には「中村は南の鹿畑に続く、いわゆる「清水道」と「北田原、東畑」を結ぶ東西道が交差する位置にあります。嘉永元年(1848)の絵図「大和細見図」にも中継として「中村」の名が記され、かって高山交通の要衝だったことが判る」と紹介されています。天保14年の絵図にも高谷から中村を通り鹿畑に通じる道があったことが記載しており、「中村」の集落は古い時代から独立し高山の重要な中継地であったことが窺える。


集落に入る前に寄り道して中村の二月堂へ向かう。
此所は高谷集落との境界で、こんもりした森の中の高台に南向きでお堂は立っている、高台からは眼下に中村集落、田畑が見える。木々が伐採されているのでお堂の周辺は明るい。
 二月堂の祭祀は観音厨子である。地面に今は使われなくなった供台?と思われる焼き物や、灯明を点したと思われる火袋が落ち葉に埋もれている、供台?には「奉納、二月堂 明治31年1月吉日 26才男」と書かれ奉納者の名が最後に記載されている。火袋には「奉納 丹後田辺」とあり最後に文字が見えるが読めない。地元の方であろうかお堂の前には寄進者の石碑があり、表に「献燈」と有り金額と名前が刻まれている、裏には「昭和51年8月吉日」と刻まれている。
 現在、二月堂遥拝所は、集落(80戸)で祀られている、祭祀の世話役は輪番制で、法要は無縁寺の僧侶によって、8月17日の夜に行われる。当初は青年会の行事であったが、現在は集落(垣内)の行事に移ってしまった、当時は青年達の一大行事だった思われる。
 戦前には流行病、旱魃等に苦しんだとき,二月堂に籠もって護摩を焚いて祈願した、戦時中には家族の無事を祈ってお百度を踏んだと云えられている。

 この集落には「二月堂観世音菩薩遥拝所設置由緒書・中村青年会」と云う古文書が保存されている。

        峯の二月堂観世音菩薩遥拝所ノ由緒書
仰東大寺二月堂観世音菩薩遥拝所則字中村垣内ノ峯ト謂ヘル所ニ安置ナシタルハ元来同村九平氏ノ開基創立ニシテ・・・・同村ニ於テ以前少年ノ輩友連中ト名称シテ組織シ来ルニ・・・・青年会ト改称シ組織シ、前書ノ二月堂ヲ青年会へ元創立主ヨリ譲請、左ノ世話人ニ依頼シ同村ノ協賛ヲ経尚基ニ寄附ヲ受納シ・・・・就テハ諸附属献具ヲ新調シテ、爾来ハ青年会ヨリ守護スル事ニ確定シ、爰ニ紀念ノ為一書シ、保証候事
      明治参拾壱年(1891)壹月廿六日
                  高山ノ内中村
この後に世話人が7名が記載され,当時の村長の名も見える。

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中村の二月堂


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                 供 台?  
                            
                    
二月堂の西に阿弥陀寺がある。寺の沿革によると
 「今の阿弥陀寺の住所地に数百年前から峯堂(むねんど)と云う一草庵があった。この草庵を寛永年間(1624~1643)に信誉上人が増改築され佐太の来迎寺の末寺として開山された。以来十数代を経て第十九世来誉上人が寛政八年(1796)に本堂、客殿を建立され、鐘楼堂は文化二年(1805)に、表門は文化八年(1811)に、第二十世願譽上人が建立されて寺院としての外観だけを備えられた。その後第二十五世の香厳上人が寺域を広め、仏具、荘厳も整えられ境内の整備もされた」。その後、寺で起きた色々な出来事が記され、現在に至ると纏められている。
   
   名称    宗教法人 峯堂山阿弥陀寺
   宗派    浄土宗 
   本尊    阿弥陀如来座像
   檀徒    参百七拾戸  信徒 壱拾八戸
   境内    国有地  四百八十六坪



 昭和20年戦争激化のおり、空襲警報が発せられると、小学校が阿弥陀寺の下の方にあった為、小学生は阿弥陀寺の坂を駆け上り阿弥陀寺境内に逃げ込む、境内一帯大木に囲まれ薄暗く上空からは見えなかった、各班ごとに集まり、艦載機が通り過ぎるのを待って、それぞれ年長者と一緒に帰宅する。これが日課であったと古老から教わる。


阿弥陀寺の北側には高山八幡宮、富雄川の西に法楽寺がある、これらについては別の項で説明する。


二月堂のお堂から南に小高い丘が見える、そこには無縁寺墓地があり、大北地区の一部、久保地区、宮方地区の共同墓地である。
墓地の由来は、有井山家文書の「和州添下郡高山村御墓所由来」に記載されている。

       尾谷峯墓所(無縁寺墓地)由緒
 この墓地は昔山城の境にある大谷から寛永15年(1638)3月15日に和州高山郷の久保村尾谷(オダン)の峯に墓移しが行われた。
開墓(供養)は上の坊法楽寺の大阿闍梨特盛であった。

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 無縁寺についての詳しい資料は無いが色々な文献を総合す              
 ると次の様になる。 此所には切支丹の石碑があると言われているが未確認。 
  由緒 不詳
  本寺 阿弥陀寺   宗派 浄土宗
  本尊 阿弥陀如来木座像  36cm(一尺二寸) 金箔置
  信徒 150戸
  住所 高山町小字久保
  喚鐘 高さ47.3cm直径27.6cm
     池の間刻銘 和州高山村無縁寺什物 施主惣檀家中
          正空智代 安永7戊10月佛成日
    駒の爪刻銘 京大佛住西村上総大掾宗春作
この喚鐘は高山村無縁寺の什物で施主は村の檀家衆、正空智住職の時代に造られた、安永7年(1778)10月佛成。作者は京都の宗春である。
(喚鐘、半鐘、梵鐘の違いは一般的に直径で分類される)

無縁寺から東側には切池(きりけ)の集落が見える。
切池集落には行者堂なるお堂がある、高田照世氏著書によると、「切池垣内の行者堂には、高さ1m奥行き50cm程の自然石沈刻浮彫行者像が鎮座し、表に「元文3年(1738)戊午7月吉日 願主正宝院、切池俗名庄兵衛」裏に「奉造立 大峰山上三三度 為二世安楽」の銘がある。また、棟札には「天下泰平 大和高山 奉新建神変大菩薩堂字村内安全也 五穀豊就 金丸講中敬白」「我此土安穏天人常充満 其一切徳也 維持昭和31年2月26日厳修」と書かれている。
 行者像は元文3年7月、切池の庄兵衛が、大峰山上に33度参詣した記念に建立した、当時は、大峰三上参詣が流行していた事が窺える。また、行者堂は昭和31年に金丸講(キンマルコウ)が、村内安全、五穀豊穣を祈願し建立した。現在、切池集落では金丸講の活動は行われていない。


また、切池集落には電子技術発展のため昭和40年頃に出来た、電波測定所がある、此所は電気製品から発する不要な電磁波(電波)を法律上許される範囲にあるかどうか測定,判定し適合すれば証明書を発行する社団法人である。高山地区では余り知られていない。


 この建物から少し南に切池の吉兵衛さんという人が住んでいた。現在、子孫は関東圏へ移住したと聞く。 大正四年北倭郷土誌資料によると、

 吉兵衛ハ政吉ノ先代ニシテ、幕府ノ未造ヨリ維新ノ初期ニ至ル迄、旗本堀田家ノ庄屋ヲ努メ其ノ大庄屋各タリシヲ以テ、勢力権力一時隆々タルモノアリキ。俗ニ切吉ト称スルハ、其ノ居宅ガ切池ニ在ルヲ以テナリ。
    中略 
 何時ノ頃ヨリ薩摩ノ出入ヲ努メテ同藩ノ重ンスル所トナリ、彼ノ島津家ガ率先シテ始メテ堺大浜ニ洋式製糸場ヲ創立スルヤ、吉兵衛ハ挙ゲラレテ同地青木久三郎(大醤油屋)大徳(川尻筋回船問屋)ト倶ニ之ガ監督ヲ托セラレタリ。又旧主堀田主計ガ維新ノ際朝廷ニ帰順シテ少額乍ラモ家禄ヲ下賜セラレ、先祖ノ祀ヲ絶タザルヲ得シモ、実ニ吉兵衛ガ薩摩ニ対スル縁故ニ困りテ斡旋大ニ努ムル所アリタルニ頼レり。又幕府時代ニ在リテ吉兵衛ガ其ノ名義ヲ以テ堀田家ノ金札ヲ発行シ、付近一帯ニ信用ヲ得テ弘ク通用シタリ。吉兵衛又事業経営材幹ニ冨ミ、維新ノ初、率先シテ牧牛養豚ノ事ニ従ヒ、又若州(注1)ヨリ金扱(農具)及ビ鰤ヲ取寄セテ売弘メ、又米買ヒ山買イ等手出シ、且ツ京都西陣織物ニモ関係シ、其間失敗ナキニシモ非ザリシガ成功セシコトモ亦尠ナラザリシトイフ。
    中略 
金札発行ノ際ニ於ケル警護ニハ、専ラ村ノ若者ヲ徴収シテ之ニアタラシメタトイフ。
以上のように記載されている。

 生駒市の古文書調査の折、小判数枚が発見され生駒市教育委員会が保存して居ると聞く、又、薩摩藩との付き合いも、広く行われていたことが当家の文書等で判明している。又、吉兵衛が通るとき通行人は道に平伏して見送ったと地元では伝承されている。
   注1 若狭国はかって日本の地方行政区分だった令制国の一つ、
      現在の兵庫県佐用郡佐用町若州

 切池集落から市道72号線に出て京都方向、数100m先の小高い丘の上に延命地蔵がある、元は丘の麓にあったと云われている。
延命地蔵は中村集落(80戸)で祀られており、江戸期の地蔵菩薩像四体と貞享年間(1684~1688)の六字名号板碑を祭祀している。毎年7月23日の夜七時から行われる祭りには全戸がお参りして、無縁寺の僧侶と読経する。


 切池集落から少し離れた場所に「曽我のモリサン」がある。祭神は「曽我大明神」で切池集落の24戸で祀られ、9月23日道作りの後に祭りが行われる、昆布、するめ、粟、菓子、酒等を供え、輪番制の神主が祭祀を受け持ち、祝詞を上げ、その後、直会が行われる。神主には元治元年(1864)墨書銘のある御膳箱と独鈷鈴が受け継がれている。
 昔の道作りは、終了が夕方になったため祭りは夜にり、各自料理と蝋燭を持ち寄り、夜遅くまで酒宴が続いた。
 最近は道路状況も良くなり道作りは昼までには終了する。そのため祀りは午後からとなる。
 曽我のモリサンは久保地区(現在の自治区域)の外れの山中に存在し、此所を越えると大谷墓に通じる。尾谷に墓移しが行われるまでは此所に墓地があった。
 昔、社が災害に合い、別の場所に移動されたが、社の向きが悪く災難が発生、そのため社は切池集落を向く位置に修正、災難は無くなったという伝承がある。
以上は「祖霊と精霊の祭場 高田照世著」より引用。

 「道作り」高山の各地区(垣内又は集落)に於いて行われる行事である、今の様に道路が整備されていなかった頃、道が崩れ狭くなったり、穴が空いたり、で通りにくくなった部分の補修工事を集落総出で行う行事である。
日時は収穫前の9月頃から10月頃と決まっていた。

 その他に「かわぎり」という行事もある、呼び方は地区により違うかも知れないが、川に土砂、ゴミ、雑草などにより川幅が狭くなって、大水による災害防止を目的に行われる。(川を切り取ると云う意味で狭くなった部分を削り元の広さに戻す作業)作業は台風の季節前に行われるのが常である。
 現在、「道作り」「かわぎり」は高齢化、護岸のコンクリ-ト化、道路の舗装化のため一部の地区のみ行われている。


 久保地区(現在の自治区域)に「人木谷」という地名がある、昔処刑場ががあった地で「人斬谷」と呼ばれていた、何時の時代か判らないが、この字では不都合が生じるので「人木谷」と呼ばれる様になったと伝承されている。
生駒市誌に記載されている高山町小字地名図には「人木谷」なる地名は見当たらない。


参考文献 
生駒の古道、生駒市誌、法楽寺文書、有井山文書
祖霊と聖霊の祭場 高田照世著、北倭村風俗誌調、
生駒市古文書調査報告書、北倭村誌、
北倭郷土誌資料、高山文化研究会資料。


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# by kwsan | 2016-02-10 21:05 | 歴史 | Comments(0)
空き家
夏の間は葉っぱに覆われ見つからなかった、葉っぱが散ると枝に作られた蜂の巣が姿を見せる。すでに空き家である、子供達は総て生長して旅立ったのだろう、扉が開いている。
今年もやってくるのだろうか、楽しみだ。
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# by kwsan | 2016-02-05 11:56 | 昆虫 | Comments(2)
ウォーキング

 1月は室内で過ごす日が多く、2月からは出来るだけ屋外で過ごす時間を多くしたい。
 今日は健康保持のため、向露寺駐車場からクロンド池方面にウオーキングに出掛ける。車は向露寺墓地の駐車場に、住職と総代長の許可を得て駐車場を借り、10時駐車場を出発、クロンド池方面には車道に付随した歩道は無く、大きい車がひっきりなしに通るので注意が必要。

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 鉄工所が進行方向右側に見えてくる、鉄工所の前を横切ると道路は大きく右におれ、道路の両側から木の枝が覆い道路は薄暗くなる、車は、すごいスピードで通り過ぎていく、道路は益々暗くなり左に大きく折れる、暗がりの中から前方に三叉路が見える。
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右に行くと枚方市方面、真っ直ぐはクロンド池、三叉路まで来ると枚方方面に警察車両が赤いランプ回転させ止まっている。野次馬根性でそちらに向かう、車同士の衝突事故、生駒市清掃社と一般車両と思われる、両方の運転手側が大破していた、先ほど救急車が通ったのでけが人も出ているのでしょう、警官の誘導でそこを通り抜けクロンド池の水口に着く。
 クロンド池補修工事の碑がある、隣には観音さまだろうか祠が建っている。この付近は水深3から4m在るだろう、昔は樋迄丸太が置かれそれを伝って樋の上に登り樋を持ち上げていた様に思う,今は岸からハンドルを回すだけですむ。
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 碑の後方に水を排出する水路が見える。水口及び樋から出てくる水を2方向に時間あたり同分量流れる仕組みになっている、クロンド池が出来た時から、この方法を取り入れ、取り水によるトラブルを防ぐ方法が取られてきた。右は「滝の口から城の茶屋」方面、左は「茶屋の谷から墓ノ谷」方面の水路、どちらの水路もその先は富雄川に繋がっている。
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池の南側遊歩道を進み
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久しぶりに展望台に登る、
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 木で作られた階段を上り始めたが中々展望台にはたどり着かない、登りかと思えばくだり、又木の階段、運動には良いが早く着きたいという気持ちが歩く速さを早める、5分ほど歩いただろか、やっと展望台が見える。
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この登りで汗だくになるが冷たい風も心地よい、展望台に上り一休み、天気が悪いので、クロンド池を上から見た写真も霞が掛かり何となく暗い。
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帰りは違う道を利用して新池の南側におりる、階段は急だが道のりは半分以下。
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新池の西の堤防を通り抜け、アミジョ池に着き時間を見たら11時
今日はここまでと帰宅、今度はクロンド池の北側の道を通り桜並木の堤防を通り抜け山道に入る。
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 落ち葉の積もる道が10分ほど続き、段々の田んぼが連なる「城の茶屋」にでる。材料置き場などの建物がある道から高山城跡の遊歩道の坂道を下り向露寺墓地駐車場に着く。1時間半ほどのウオーキングだったが1万歩ほどの歩数となった。


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# by kwsan | 2016-02-01 19:19 | 風景 | Comments(2)
夕べから今朝に掛け気温低く体にこたえる。昨夜11時頃すでに零下5度、今朝も変わらず水道の蛇口は対策したにもかかわらずバルブは動かず。洗濯機昼頃までお休みだった。
そんな中にも植物は春を伝えてくれている。
                                
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        梅も5分咲きこの寒さに一休みという所
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         今日の寒さにも菜の花は耐えているようだ
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          花の名は知らないが一輪 目に付いた








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# by kwsan | 2016-01-25 16:57 | 植物 | Comments(0)
古道(高谷集落付近)

生駒民俗会発行の「生駒の古道」高山・伊勢街道を歩きその土地の歴史を振り返る。


 向谷から「笹見谷」を抜け「坊殿(ぼうどん)」を後にして市道65号線を渡り左へおれる、暫く進と三叉路に石橋が架かっている(よく見ないと見落とす)、石橋はがっちりとした大きい延べ石で造られ、随分と長い年月、多くの人を見送って来たのだろう、橋の表面がなめらかである。 橋を渡らず真っ直ぐは、精華町東畑、京田辺市打田方面への旧道、現在は途中で市道65線に接続。

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            東畑、打田方面の旧道

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              石橋を渡り向こうが高谷集落

 この付近には「池之内」「十護寺」なる小字が存在。現在は山や田畠になっている。
 「池之内」の地名は延久2年(1070)興福寺雑役免帳に見られる、この頃すでに集落が存在していたと思われる、周辺の旧家の過去帳には「池之内」から移転と記載、過去帳は元禄時代から始まっているので、約300年以前にすでに集落があったことは事実である。
「十護寺」についての伝承はないが、寺院があったのではないだろうか。集落のある所には寺院があっても不思議ではない。


 橋を渡り緩やかな坂道を登りきると、高谷(たかだん)集落の入り口である。
「高山惣絵図」によると、高山八幡宮の北側にある谷で大門村に「字高谷」と言う地名が認められる。又、天保14年の絵図には、向谷を通って高谷集落を通り抜け、次の集落への道も記載されている。


 高谷の地名は法楽寺文書「覚書綴」慶安元年(1648)にすでに現れている。それには以下のように記載されている。


 1.高谷田8町仕候年慶安元戊子年仕候、堤ハ惣中合力、田普請   ハ我等仕候、手間前後二百仁、今年米弐石三斗作申候、


 要約すると、高谷集落の八町の水田は慶安元年に開発し、堤は村中で力合わせ築き、田の普請も我々が行い、のべ200人の手間を掛け、今年(慶安元年)に完成した、その結果米二石三斗の収穫があった。又、この後の文章に宮方の田地普請、築堤も高谷の人達が工事に関与したと記載している。


 集落の道を下って行くと、その先は人家の庭先から畑の畦道に続いている、通るには持ち主の了解も必要だろう。それに近年猪がこの辺りをウロウロしているので注意と持ち主は言っていた。

 畦道を過ぎると山道になり、落ち葉が道一面に積もり山の香を残す。道は昇り坂になり、頂上は三叉路でこれを越えると次の集落に入る。頂上付近は高谷集落と隣の集落との境界になっている。


 高谷との境界付近には平成20年頃迄オダイッサンの祠があった、現在、祠はなく瓦や木材が散乱し、土台の延べ石のみが残って、落ち葉が歴史を封印しているかのようである。
持ち主(奈良市在住)の話によるとオダイッサンは木造座像で、痛んで正常な姿ではないが祀っているとのこと。
又このオダイッサンは、明治34年頃に高山で始まった「高山新88ヶ所 52番札所 中村の峯」となっている。最盛期の3月21日には沢山のお参りがあり持ち主が、お菓子やおはぎを提供して接待したと聞いている。
祠は何時頃造られたのかは不詳であるが、「高山新88ヶ所」を考えると明治30年頃の建造ではないだろうか。

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             オダイッサンの祠跡

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              祠に使用されていた鬼瓦

 近くに愛宕山の灯籠が立っている、建立目的は不詳である、その横には小さな石碑が3体列んでいる。灯籠には榊が御供えされ、火袋には愛宕山神社の札が納められている、灯籠に刻まれた文字は解読出来なかったが「○永3午○ 12月10日」と読める所から「安永3午年(1774)12月10日」と考えられる。灯籠と石碑は別の場所で祀られていたが、30年ほど前この場所に移動したと地元の人から聞いた。

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          愛宕サンの灯籠と3体の地蔵さん


 高谷集落の小字長谷には、昔から太い蛇が住んでいるとの伝承がある、人間に危害を加える事は無く、静かに高谷集落を守る地主神ではなかろうか。


 金刀比羅社は高谷と東大門の垣内47軒で祭祀しており、祭祀は9月1日、以前は垣内の山中で祀っていたが、何時の時代か判らないが八幡宮の境内に移転した。当時は木造で大きな社であったが壊れてきたので、その後コンクリートで社は造られた。
地元の人に祭祀の理由を聞くと「高谷の住民が水難に遭わないため」と聞く

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              八幡宮に祀られている金刀比羅社

 個人的な意見であるが、古文書に高谷の水田は地元で開発したが、長年に亘って、水難に遭遇してきたので神仏習合の神として「金毘羅大権現」を祀ったのではないか。明治元年になって「神仏判然令」が発せられ廃仏毀釈という過激な神仏分離が起こり「金刀比羅社」に名を変え八幡宮に移転した思われる。
 辞書によると「金比羅」はガンジス川の鰐(ワニ)が神格化されて仏教の守護神となったもので魚身で蛇の形をし、尾に宝珠を持つ「宮毘羅」(クビラ)で薬師如来の十二神将の一つであると言われている。
 推測であるが、「金刀比羅社」は伝承の蛇に関連があり、その付近に祠があったのではないだろうか。


 
参考文献 
生駒市誌、生駒市古文書調査報告書、法楽寺文書、天保14年の絵図
地域的霊場の成立と展開 津浦和久著、祖霊と精霊の祭場 高田照世著


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# by kwsan | 2016-01-20 16:26 | 歴史 | Comments(0)
向谷集落周辺


生駒民俗会発行の「生駒の古道」高山・伊勢街道を歩きその土地の歴史を振り返る。


 白岩橋を右に見て市道7号線を渡ると「向谷集落」である。その境界付近には毎年正月と秋祭りには「御神燈」なる提灯が立てる風習が残っており提灯の立つ向こう側は向谷集落と考えられる。
「向谷」の地名は古く法楽寺文書 「公儀御法度条目3通請書(貞享4年1687)」に見られる。

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        提灯の向こうは向谷集落 橋は美の原川に架かる橋



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              上記写真の同じ場所


 本願寺には「輿入用代銀弐百卅五匁」「元文六幸酉年(1741)」「念仏講什物同行十四人」「三月吉日」と墨書きされた大きな箱の蓋(1070×1020の一枚板)が残されている。
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             念仏講の道具入、箱の蓋の裏

箱からは古文書が見つかりそれには「倹約申合覚書 向谷垣内」文末には「文政元年(1818)庄田村中」とある。

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                倹約申合覚書 末頁

 この頃の高山村には、傍示、庄田、大北、大門、久保、中、宮方、芝の八垣内が存在した、これらの垣内は、地縁的な強い結びつきを有しており「村中」として申し合わせを行う事もあった、文政元年に「壱拾カ年間倹約」すべき事項を申し合わせている「倹約申合覚書」はその1例と、生駒市古文書調査報告書に記載されている。
他に「念仏講かけぜん覚帳」などが見つかっている、本願寺過去帳に向谷の檀家は16軒となっており、念仏講の同行14人とほぼ合致する。
 本願寺什物に「文化14年丁丑年11月朔日 細工向谷仲右ヱ門」と蓋の裏に墨書きされた仏涅槃図を入れる箱もある。
以上のことから向谷集落全体は本願寺との関わりは強く、古くから関わっていたと考えられる。地元の人に依ると「最近まで向谷念仏講の道具が必要な時、本願寺へ引き取りに行った」と云っていた。



美の原川の橋を渡ると急な登り坂から緩やかな道になる、目の前に大きな木が茂る森が見えてくる、某保険会社社長の生誕地である。道路は四叉路にさしかかり東南の角に灯籠が建っているのが見える、立てられたのは不明だが、道案内のために建てられたものだろう。「生駒の古道」には小森畑の伊勢灯籠と紹介されている。
 この辻を左へ進と頂上には「しるし墓」がありこの付近が向谷との境界でこれを越えると「小森畑集落」に入る。この地名も古く「元禄3年(1690)の八幡宮棟札に「子守(小森畑)」と出てくる。小森畑には有井山家、冨田家等の近世に活躍した人物の子孫も健在であり一時期有井山家文書から有井山家地内に陣屋が置かれていたことが判明している。

現在は向谷と小森畑を一緒にして「南垣内」という自治形態を取っている。

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                  灯 籠

 灯籠を見ながら急な坂道を登る、途中には竹藪が続く、この周辺には戦後暫く数件の人家がありその一軒が瓦を生産していた史実がある。その子孫は地元に住居を持たないが健在と聞いている、その瓦は地元で消費され、その一部が本願寺本堂屋根にも使用されている事が瓦に刻印された文字から判明している。
 細い道の頂上には携帯電話のアンテナが立っている、それを右に見て急な坂を下ると道は土手ぞいに続いているのが見える、遠くに「高谷集落」が望める、右手前方には竹林園の競技場がある、この谷一体を「笹見谷(ささがたん)」と呼ばれている。この周辺は竹林園が出来る前まで段々に田が連なっていた。

急な坂を下ると道は緩やかになり、右手に池が見え三叉路(はっきり判らない)にさしかかる。池の堤防を通り細い坂道を登ると竹林園、竹林園を通り抜けると富雄川に出られる。
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   笹見谷 遙かに高谷集落が見える、右手池之向こうに竹林園グランドがある

 竹林園には、戦国時代の豪族「鷹山氏」の菩提寺である円楽寺があった。
現在この墓地は法楽寺と鷹山家の家臣に依って組織されている無足人座の人々により保存されている。春に法要が法楽寺と無足人座の人々によりで行われている。

 鷹山氏の墓跡には以下のような石碑が列んでいる。
  山形名合板碑     享保2年 (1529)
  五輪塔        明応9年 (1500)頼栄
  五輪塔        永正16年(1519)頼宗
  五輪塔        天文12年(1543)?
  五輪塔        天文20年(1551)頼春
  五輪塔        天文22年(1553)弘頼禅定門
  五輪塔        天正8年 (1580)頼盛大徳
  五輪塔        貞享3年 (1680)頼茂大徳
                       妙徳大師
            (三輪氏、東大寺中興公慶上人の母)
  五輪塔        元禄16年(1703)頼忠居士
  五輪塔        享保4年 (1719)頼安居士
  五輪塔        享保9年 (1729)頼心居士
  他に無記年3基、永正残欠1基、小石仏郡が松林にあり


 円楽寺は法楽寺の末寺で、真言宗新義派 本尊は不動明王で檀家は数件であった。境内は90坪(明治九年 法楽寺文書に記載)でお寺としては余り広くはなかった、由緒については不詳。
又、円楽寺は「寺中5ヶ寺」にも含まれ、正月3日には天下安全五穀成就を祈祷し牛玉法印の祈祷札を村人に配り、八幡宮の座、「寺中座」にも含まれ八幡宮の座にも関係していた。(法楽寺文書「享保16年(1731)当地寺由来書」)。

 当時の円楽寺は鷹山氏の関与により優勢をほこっていたが元禄の頃になって鷹山氏の衰退と同時に廃寺となる、そこで公慶上人が姉の興福院教誉尼と図って、親の鷹山宇左衛門(頼茂)15回忌に際して円楽寺を修復し併せて興福院に関係する僧を住持に入れた、したがって近世の初め頃までは鷹山氏の影響はあった。

 昭和61年、生駒市の発掘調査概要によると「中世城館の存在、廃円楽寺の遺構を確認するに至っていない」とあることから、明治元年になって発せられた「神仏判然令」により廃仏毀釈と言われるような過激な神仏分離の動きが起こり(明治21年8月に毀された伝承がある)円楽寺は取り毀された。したがって現在円楽寺跡地は確認出来ていない。
                   

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           円楽寺跡の鷹山氏一族の墓跡

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                  円楽寺跡の墓石群

三叉路から田んぼ沿いの緩やかな坂道を下っていくと「坊殿」に着く、坊殿には鷹山氏の住居があったと云われている。今は薮になっているが戦後しばらくは畑や田んぼが連なっていた、川べりには井出があり九頭神川から水を引いていた、今はその井出も崩れ竹藪化している。
次回は高谷集落です。

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      坊殿 竹藪は以前田んぼや畑でした その向こうに竹林園がある

 参考資料  生駒の古道、生駒市誌、向谷念仏講資料、
       生駒市の発掘調査概要(昭和61年)、
       本願寺過去帳(俗名のみ、写)、
       生駒市古文書調査報告書、法楽寺文書、
       近代日本天台の布教理念 木内堯央著、

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# by kwsan | 2016-01-11 20:53 | 歴史 | Comments(2)