自然と歴史
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竹林園の夕暮れ
竹藪の向こうに沈む太陽が、天気が良ければ明るく見えるのだが、今日は雲多くその姿見えず。
竹藪の向こう側には、その昔、円楽寺というお寺があった。生駒市の発掘調査では円楽寺跡地と言われる場所は確認出来なかったと記されている。しかし古文書が残っていることから円楽寺が存在していた史実はある。円楽寺は地元の豪族の菩提寺でもあり。一族の石碑が残っている。

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5月7日、笹見谷(ササガタン)にて

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# by kwsan | 2016-05-12 19:11 | 風景 | Comments(0)
東大寺 聖武祭

毎年行われている聖武祭に法楽寺(公慶上人ゆかりの寺)の檀家として参加してきた。大変な人で歩くのもままならず。住職も行列の独りとして参加されておられた。地元の無足人の方は、おられるはずなのに見落としたのか見当たらなかった。
供養後焼香が行われるが、その中に近所の方がおられた事は、誇らしいことである。観光客の中には外国の方も多く国際色豊かであった。


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http://www.todaiji.or.jp/contents/function/04syoumuki.html


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# by kwsan | 2016-05-02 20:42 | 歴史 | Comments(0)
見かけない昆虫
蚊を大きくしたような昆虫、見ているのかも知れないが、記憶にない。
蛾でも蝶でもない昆虫。図鑑で調べると、間違っているかも知れないが、マダラガガンボではないかと思う。体長は30数mmある、大きな昆虫である。
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匹に見えるが2匹が重なっている


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             上の図を拡大した


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# by kwsan | 2016-04-22 16:12 | 昆虫 | Comments(0)
チゴユリ
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ユリ科チゴユリ属
 名前の由来は、花が小さくて可愛らしく百合の稚児に似ていることから「稚児百合」と言われている。
日本全国に分布、高さ15cm~30cm、球根はなく、太い地下茎をもち、新しい芽が出ると、古い根は枯れる疑似一年草で、落葉樹林の木陰等に群落をつくる。茎の先端に1cm程の白い花を1~2輪付け、下向きに咲き撮りにくい花である、4月から6月頃に見られ、秋には黒い実を付ける。また種子繁殖も行われている。
 花は6枚の花被片、6本の雄蕊、先端が3つに別れている雌蕊、花は他の百合科の花と同じつくりになっている。
アジアと北米に15種が分布、日本では4種1変種が自生する。

絶滅危惧Ⅰ類 佐賀県、鹿児島県
危急種    長崎県
に指定されている。奈良県では危惧種であると聞いていないが、無闇に採集することは避けよう。

黒添池周辺の湿地に群落が見られるが笹などの雑草が繁殖すると姿を消してしまう。 


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# by kwsan | 2016-04-19 21:47 | 植物 | Comments(0)
ウスギヌカギバ
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薄絹鉤翅蛾(ウスギヌカギバ)
H28.3.28 am8:00頃 撮影 生駒市(ブナ科の植物が繁茂する地域の畑にいた)
天気 快晴  温度10度
成育地域 関東以南   年2回発生 4月頃と10月頃

幼虫はブナ科(アラカシ、ウラジロガシ、コナラ、ミズナラ、クヌギ)の
葉を食する。

今迄沢山の蛾を見て来たが、初めて見る蛾である。遠くから見ていると蝶と
間違う模様、近づき、よく観察すると、蝶の触角とは違うため、蛾であると判明。
名前はネットで調べた。

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# by kwsan | 2016-03-28 18:12 | | Comments(0)
富雄川 1

 高山地区内を流れる、富雄川は、一級河川として国の管理下にあり、源は高山溜池となっている。昔は「瀧
川」(たきがわ)と「美ノ原川」の合流地点から下流を「富の小川」(富雄川を意味する)と呼ばれいた。
                   
                     石橋の向谷橋 
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 現在、溜池から美ノ原川の合流点までの地域を、地元では、九頭神垣内又は九頭神谷(クヅカミダン)と呼び、川を「九頭神川」と呼んでいる。何時頃から呼ばれる様になったかは定かではないが、明治10年頃の調査資料では「九頭神川」を「瀧川」と記載されている所から、それ以後と考えられる。

                      瀧川(九頭神川)
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 美ノ原川の源は京田辺の高船、打田との境界に聳える山が分水嶺と考えられ、途中、色々な谷の流れと合流して美ノ原川となって富雄川に合流している。
                   美の原川
              

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 富雄川について、法楽寺縁起に「泉州堺北へ落ちる大和川龍田川富の小川皆一流三川の名所にて此の三つの川水上みなり法楽寺より30町北二丈餘の瀧ありこれ川の源初なり・・・」伝々。
 富の小川(富雄川)、龍田川、大和川は一つ川となって泉州の堺に流れ落ちる、その源は法楽寺北30町にある二丈余りの瀧である。
 瀧と思われる場所は、高山溜池の堤防の下、底樋出口付近と考えられる、溜池の水口は、瀧と云われている場所ではなく、ここは山を削り新たに作られた場所である。

                     高山溜池の水口

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 富雄川と「棚田川」の合流地点より上流の街道は川添にあった、それを物語るのが「向谷橋(ムカイタン橋)」である。
向谷橋は石橋で水害には強いが、川添の道路は、豪雨等の、影響を、受けやすく度々通行に支障が出た、その為、街道は新しく建設され、今の市道7号線になったと伝えられている。又、川添の家並みの一部は「坊田」から、地震の影響で井戸が涸れ、水に不自由なため移住した、その後発展し今の家並みになったと云えられている。
「坊田」には空井戸が現在も数基残っており、集落があったことを物語っている、ただ集落が何時頃発生したのかは定かではない。
 江戸時代の「坊田」は、本願寺の寺領であった、それを示す史料として「譲状之事」(正徳6年1716)が法楽寺に保存されている。寺領は状の内容から山林及び田地であって集落は確認出来ない。


 和州添下郡高山村惣絵図(以下、天保絵図と言う)の大北地区周辺では「古道(黒添池付近からタンダ橋まで)」で紹介した「棚田川」と、「奥の谷(オクンタン)」、「高谷(高谷川)」、「和田奥(前田川)」、「奥山」(鳥ヶ谷)の4個所の谷からの支流が描かれている。現在もこれらの支流は確認出来る。
「鳥ヶ谷」は地名として残っているが、近世になって開墾され田地に変り、川の面影はないが、水路の形態で残っている。その他は富雄川に対して大きな開口部が見える。

    高谷川と富雄川合流点(上)             前田川と富雄川の合流点(上)
    奥野谷から之流れ(下)                鳥ヶ谷からの流れ(下)

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 天保絵図及び明治10年頃の調査資料によると、大北地区の富雄川に架かる橋は、高谷橋、大門橋などが記載されている。
高谷橋は、元々市道7号線より、はるか下の川面に架けられ、 石柱を、並べたものであった。橋は昭和40年頃迄、原型をとどめていたが、市道65号線建設時に撤去され、その一部が残されている。
 大正から昭和になると、車時代が訪れ、アーチ形の橋が、今架かっている辺りに建設された。鹿畑地区の住人の設計と聞く、橋は川崎橋と呼ばれ、橋の名の由来は不詳。
市道65号線建設の折、アーチ形の橋では狭すぎるため、取り毀され現在の橋となる。

         川崎橋                      高谷橋の残石

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 大門橋は高山八幡宮前に架かっている橋で、石段を川面辺りまで降りたところにあった。市道7号線の建設時に石段は撤去されたが、現在、その一部は、大門橋の南側の石段に再現されている。この橋が架けられた理由として考えられるのは、富雄川より西の地域人達が八幡宮にお参りするのに遠回りしなければならない、これを解消するためと考えられる。現在、大門橋が取り外された、後高山宮橋に名前は変わっている

                    大門橋(現 高山宮橋)
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 八幡宮からこの橋を渡り西に進むと「和田」、「前田」を通る旧道に入る。大門橋から西に続く道を境にして墓地の場所が決められているが、前田川を境にして墓地を定めているとも聞く。この理由は「昔、死者を葬るとき、八幡宮の前を葬列が横断することは不浄な事と思われた」と言われている。
 有井山家文書、永代向露寺記録(元文3年1738)には「和州添下郡高山村向露寺 元来 庄田村 大北村 和田村三ヶ村之 墓所也」と記載されている。「大北村」とは「奥の谷」「大庵」「井上」を指す。
以上のように向露寺墓地を利用出来るの庄田村、大北村、和田村であると記録され、これらの地域は前田川より北側に位置する集落である。
それでは南側の集落の墓地は、何処にあるかというと、久保地区の無縁寺にある墓地になる。


 大門橋が架けられたのは向露寺墓地や無縁寺墓地が開基する以前と考えられる、向露寺墓地は元禄弐年(1689)、無縁寺は寛永15年(1638)の開基であるからそれ以前と考えてられる。


「大門」は「藤本寅雄」氏によると、此所は高山の中心部、中村に位置していて行政的位置が高山八幡宮のそばにあって核的存在であり、「カイガケ道」「郡南街道」「天王道」と交通上要衝の位置にある事から関所があった、鎌倉時代にはこうした位置に関所を設けて土地の豪族が関銭を取っていた。と綴られている。
このことから藤本氏は関所説を唱えている。


 私見であるが、現在の参道は西に向かって延びているが、鎌倉時代の参道は、真っ直ぐ南の出店まで続き、出店付近から八幡宮に向かって緩やかな昇り坂であった、参道の何処かに大きな門があり、その両側には家並みが続いていたと思われる、門は雷か戦火などにより焼失し、その後、再建されず地名のみが残ったと考えられる。


 川縁に作られた遊歩道は、平成になって造られたもので、当初の計画では、竹林園辺りまでとなっていたが、途中計画変更があり、工事は終了している。
竹林園への橋は竹林園と同時に造られ、竹林園専用となっている。

       鷹山大橋(竹林園前の橋)                富雄川の遊歩道

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 法楽寺前の橋は天保絵図及び明治10年頃の調査資料では確認出来ない。私見であるが小学校が、今の所に明治44年に八幡宮境内から移転した。建設はその頃ではないだろうか?。北小前の歩道橋は市道7号線開通後の建設。
      法楽寺前に架かる橋
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 久保地区の出店橋は古く天保時代には既に使用されていた、ブログ「古道(中村周辺)」で紹介した通り、この橋は中村地区へ入り口でもあり、高山地区の交通の要衝に架かる橋でもあった。出店橋付近には、集落的なものは無く、数件の人家のみであったと云われている。

    出店橋
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 「出店」と言う地名は、辞書によると、「店」は「見世」とも表され、人が集まる所に棚を置いて品物を売る所と説明されている、又は出見瀬と表すと浅瀬で流れが速い川辺が見える所に出られる場所、とも取れる。出店は古き時代より交通の要衝でもあり前者の意味であろう。


天保絵図には、久保地区内に流れる、中村川があり、有井山家文書に砂防工事の資料が残され、大雨などによる災害が多かったことを物語っている。その源は「ドキツカ」用水池付近の精華町東畑との境界に連なる峯が分水嶺と考えられ、途中、幾つかの谷の流れと合流して出店橋付近で富雄川に合流する。

     正面が出店橋で右の開口部が中村川
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 出店橋から中村川を越え山手に登っていくと北面の斜面に集落が続く、この一帯を「坊向(ボノカイ)」(坊の向村)と云われ、明暦元年(1655)頃には、既に独立した集落があった事が、法楽寺文書「高帳」から読み取れる。斜面を登り詰めると無縁寺とその墓地がある。


 富雄川と中村川の合流付近で「富士垢離」なる風習が行われていたと云う、それは「維新ノ頃迄行ハレタル敬神的風習ニシテ毎年8月中5日又ハ一週日ノ間篭り所ニ起臥シテ家ニ帰ラズ。身ニハ白衣ヲ着ケテ精進潔斉シ水辺ニ七五三縄を張リ(砂州ヲ穿チ屈曲シテ水ヲ導キタリト)付近ノ高所ニ弊束ヲ立テ、下リテハ水垢離ヲ取り、上リテハ弊束ヲ拝シ南無神変大権現ト唱フ・・・・出店橋ノ下ハ即チ其垢離ノ場所ナリ・・・」伝々、と生駒市誌(北倭郷土資料)に記載され、又橋の下には浅間塚という高塚も作られていたと云われている。江戸時代には高山地区の川の各所で、この風習が行われていたとも、記載されている。

 出店橋付近には、江戸時代から明治に架けて、切支丹を取り締まる為の「高札」が立てられていたと、有井山家文書に残されている。出店橋付近は、交通の要衝でもあり、色々な人が行き交うため、人目に付きやすかったのであろう。
 高山地区には寺請証文が300余通残されている、その内75%程が法楽寺に保存され、残りは傍示地区の個人宅で保存されている。その他庄田、大北、久保の各地区にも数件確認されている。

 寺請証文とは高山地区内に婚姻、丁稚、養子(女)等で移住する場合、戸籍が切支丹で無いという証明で、檀家寺が作成した「証文」である。遠くは岐阜県や石川県からの「証文」も見つかっている。

 天保絵図には「ミノ口」から北中の敷地内を通り流れる川が描かれているが、確認出来ない。今後の調査に待つ。

出店橋から50m程下流に、斜めに架かる橋は国道163号線から、北方面への迂回路として建設された道路に架かる橋である、道路は土地買収にかかる問題で未完成(平成28年3月現在)のため使用されていない。

       未完成の道路に架かる
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参考資料
 生駒市誌、生駒市古文書調査報告書、法楽寺文書
大和国町村誌集巻2、北倭村誌、有井山家文書、
ふるさと生駒の地名と私 藤本寅雄著(非売品)
和州添下郡高山村惣絵図、生駒北小学校創立百十周年記念誌、


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# by kwsan | 2016-03-11 21:05 | 歴史 | Comments(2)
伊勢
大和西大寺から乗車10:33、鳥羽12:16着、100分余の久しぶりの電車でした。
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鳥羽駅
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イルカのショウを見学、展望谷登るも風強く、撮影どころではなかった。
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翌日の観光は女性ドライバーでした。
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猿田彦神社も参拝、午後、内宮に参拝 橋を渡るのも大変でした。 
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# by kwsan | 2016-02-29 11:53 | その他 | Comments(0)
奇怪な体験

今年になってから不思議な事件が身に起こる。

その一つ
 戦国時代地元を治めていたという、高山氏の建物跡に石碑があると、聞いたので山の中を歩き廻ったが見つからず、友人を呼び出し一緒に探すと石碑は見つかり、雑草に隠れその全容は判らないが、石碑を手で触れ文字の感触を確かめ、文字が刻まれている事を確認した。次に愛宕山灯籠、二月堂、オダイッサンのお堂跡など見ながら、手で触れたりして帰宅。夕方になると右肩が「こり」はじめ、何とか直そうと肩をたたいたり、もんだりしたが、おさまらず。
 就寝前は何時も、経を唱えるのが、ここ15年来の習慣になっている。
何時もの通り、仏壇に向かって唱え初め、半分ぐらいのところで、肩の痛みが突然消えた。不思議なことがあるものだと感じてそのまま忘れてしまった。

その二
 昨日親戚で不幸があり、火葬場での出来事であるが、火葬された遺体が部屋の中央に置かれ、骨拾いが始まる迄に、方法について、係員から説明がなされているとき、遺体の足下付近で立っていると、右足に何か異変を感ずる、右足を少し浮かすと、右の方へ、足が何かに、吸い取られるような感じで引っ張られる、足を戻し地に付けると、何にも起こらないが、右足には違和感を感じる、足を浮かすと、同じように引っ張られる。何度戻しても同じ事が起こる。不思議なことがあるのだと思いながらも別の場所に移動したら、その現象は起こらなくなった。何かの前触れだろうか。
違和感とは痛み、かゆみ、等の五感とは違うもので文章や言葉では説明できない。
 こんな経験者はありませんか、コメントあれば幸いです。



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# by kwsan | 2016-02-24 19:58 | その他 | Comments(2)
古道(黒添池-タナダ川周辺)


交野市寺の住吉神社からカイガケの道を登り詰めると大阪府民の森に着く。

 昔、寺村(現、交野市寺)の親戚に招かれ、沢山のご馳走とお酒をよばれ、帰る頃にはすっかり日が暮れてしまった。
裏藪にあった黐の幼木を「おうこ」の前に、ご馳走を「畚」に入れ、後に吊し、すたこらすたこら、カイガケの道を登り、現在の府民の森付近にさしかかった時は、すっかり夜も更けてしまった、なにやら後の荷物が重く、引っ張られる感じがする、後ろを振り返り提灯で照らすも何も見えない、暫くは何事も無いが、又後から引っ張られる、何度か繰り返すので、腰を下ろし、休憩していると、暗がりの向こうに微かな灯りが見える、「さては、化かしに、きよったか」と、言いながらご馳走の一部くれてやった。この付近には、昔から狐が住んでおって、旅人にいたずらすると聞いている、急いで前後の荷物を入れ替え、その場を急いで立ち去る。
黒添池にたどりついた頃には、追って来る物はいなかった。そのとき持ち帰った黐の幼木は幾多の歴史を見聞きしたであろう、今は大木になって庭で静かに余生を送っている。と古老から聞いた事がある。
 
府民の森の中を通り、生駒市獅子が丘住宅街の西端にでる、坂道を下ると、木々の茂る森に入り、森を抜ける頃、小さい池に出会う、「アミジョ池」と地元では呼んでいる。
獅子が丘が、開発されるまでは、奇麗な水であふれ、水深は判らないが、池の底が広がり神秘な池に見えてた。
元々此所には、安明寺川があり、池の水は、黒添池への取り水とするため、川をせき止め安明寺池を造ったとされる、此所には「安明寺」というお寺があったことが、有井山家文書黒添池改修工事図面(明和5年1768)に見える。

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                かいがけの道(奈良県側)

 
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                  安明寺池(アミジョイケ)


「安明寺」についての文献は見つかっていないが、有山日記、大正4年10月19日と11月8日の項に「庵(安)明寺 まったけがり」とある。
寺の名が地名として残り、此所に寺があったことを物語っている。
(余談になるが、後の行に、「まったけは一貫目ほど取れた」とある、今から考えるとうらやましい話)

アミジョ池を過ぎると黒添池にでる。この池の歴史は有井山家文書に残されおり、図は、明和5年の黒添池改修  工事を、表したもので地区毎に、工事日程が決められている。
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               明和5年の黒添池改修工事日程計画


e0085845_16341077.jpg黒添池が完成するまで経緯は次の通りである。
寛永元年(1624) 築造工事着手、同2年工事竣工
宝永2年(1705) 黒添池はもと黒藏池と広称せり
東西205間(373m)、南北48間(87m)
享保17年(1732)「池面拡張の必要により池添なる字九頭神住百姓 嘉兵衛の田地を開掘したるに付き、
その代地として棚田川口の除地を合い渡す。」
元文3年(1738)黒添池並川添堤普請
明和5年7月14日(1768)大改修工事着手、
享和3年(1803)工事竣工。 (生駒市歴史年表より)






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旧道は看板辺りを下りた(現在は工場の敷地 通れない)


天保14年の絵図によると、黑添池を過ぎると「大谷道」に入る、旧道路沿いには畑等が耕筰されていたが、今は廃道となって通れない、現在は黒添池を過ぎると、大きく右に折れその先で左に曲がる。
直進すると道はタナダ川に突き当たり右に折れる。川向こうの森は「高山城跡」右手には向露寺が見える。絵図では、向露寺入り口付近で橋を渡り、東側の川添の道を、富雄川合流地点まで続いていた。現在その道はないが、部分的に昔の面影を残こしている。

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             現在のタナダ川 護岸工事が行われ昔の面影は無い


向露寺駐車場から川向こうの地域を、天保14年の絵図では「墓ノ谷(はかんたん)」となっており、本願寺文書や有井山家文書から文化年間には集落が形成されていたことが判明している。
私の考えであるが、「墓ノ谷」の由来は「向露寺」が開墓された以後、墓地の前の谷なので、呼ばれる様になったのではないか?。とするれば元禄時代以降の字名と考えられる。


 タナダ川(棚田川)の源は、黒添池に始まり、富雄川に合流するまでの1kmにも満たない短い川であり、流れ込む水は「みつわり」「大廣(おびろ)」「竜王山」等の谷であったろうと思われる。現在は大廣谷の大廣川のみ残っている。
 現在の大廣川流域には「大八丁池」「新池」などの大きな池が見られるが、元禄14年の絵図にはない、井上文書「高山村社堂建立修復々中諸事年代記」(明治5年)には記載されている。大廣川は現在も水量多く清らかな水が流れている。
大廣谷の入り口の碑には「道路改修紀念碑」裏側に「昭和9年3月、自大廣橋至新池 大廣地主連中建之」と彫られている。他に地主の名が多数刻まれている。

戦後大八丁池の西岸に岩場が有り、大八丁池の上の池から水を引いて、西光寺住職等が、23日のオダイッサンの日に滝行が、行われていたと云われている。参加した人達は、すべて他界しているので詳細は不明,聞く所によると、地元以外の信者が、多数いた聞く。
また、当時岩場には延命観音が祀られいた伝承があり、その延命観音は理由不詳だが現在向露寺に安置されいる。
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                  大廣谷  左見えるのが大廣川 


 現在、大廣川とタナダ川の合流点から、富雄川までの間、道路拡張のため、暗渠になっている。道路拡張前には二つの橋が有り、地元では、本願寺から来る橋を「地獄橋」、富雄川合流付近の橋をを「タンダ橋」と呼んでいる。しかし、天保14年の絵図には「地獄橋」は見当たらない、その当時の道は、棚田川の東側を通っており、向露寺付近まで橋はない。但し大廣橋という大廣谷に入る橋はあった、向露寺付近の橋を地獄橋と言うのだろうか?、それとも近代になって呼ばれる様になったのか?定かでない。

享保17年(1732)「黒添池拡張工事に於いて、棚田川口の除地を合い渡す」とあるのは棚田川と富雄川の合流付近であろうか。
タンダ橋は、寛政9年(1797)の有井山家文書「添証文の事」に「たん田」と言う地名が出てくる、この付近に架かる橋なので「たん田橋」と呼ばれたのでは、或いは「タンダ橋」は「タナダ」の「ナ」が訛って「ン」になったとも考えられる。由来に関する文献がなく、定かではないが、「たん田」という地名は江戸後期の古文書に散見する。

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         タナダ川と富雄川の合流点 (手前がタナダ川 向こう側が富雄川)


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            タンダ橋付近 (暗渠になっているため昔の面影は無い)



向露寺墓地の由緒は有井山家文書「和州添下郡高山村御墓所由来」に、
上分之墓(向露寺墓地のこと)
此の墓は本願寺山墓地、円楽寺山墓地を、高山字西車谷に墓移した、開基は和州片岡山(現 奈良県生駒郡王寺町)達磨寺、珠岩和尚で供養は元禄2年2月15日。と記載されている。
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                  向露寺と後に向露寺墓地が見える


 向露寺にはこれ以外に3通の由緒が残っている、いずれも明治以降の作成である、交野市史に紹介されているは、3通の内の一通である。
埋葬方法が、火葬から土葬に改葬されたこと、向露寺の建物が、傍示の向露寺谷から、移転したこと以外は、御墓所由来と同じ。
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                  和州添下郡高山村御墓所由来の一部



 珠岩和尚は、大北地区、大雄寺を開山した人でもあり、位牌及び石碑は大雄寺にある。位牌には「臨済正傳第35世當寺開山珠岩寳老和尚覚位」とあり、石碑には「當寺開山珠岩宝老和尚也」と刻まれている、向露寺文書には「開山向蓮社西譽善宗大徳」と記載され石碑、位牌はない。「善宗」は「禅宗」であろうか?。
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                大庵寺にある珠岩和尚の石碑



 太田勘右衛門の伝承について
「太田勘右衛門」は本願寺墓地近くに、住居があり、火葬場の燻煙に悩まされ、難儀していた、そこで墓地を移転すれば、燻煙から逃れると考え、墓地の土地を寄附した。と伝承されている。
現在「太田勘右衛門」家の家系は、途絶え墓地は荒廃し、無縁墓になるも、墓参の形跡ある。現在墓地の石碑は総て撤去され墓石のみである。

太田勘右衛門については、法楽寺文書「譲状之事(正徳6年1716)」に「証人 本願寺旦那 太田勘右衛門」と署名捺印した状が残っている。この頃、実在した人物で本願寺の檀家でもあった。
向露寺所蔵の由緒に、建物は傍示の向露寺谷より移転とある。
傍示地区に、向露寺の名が付く字名は、地図上に見当たらないが、由緒の内容から、その場所は「尺地」付近ではないかと想像する。
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 太田勘右衛門の墓地(今はこれらの石碑総て撤去されて石柱のみとなっている)


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               太田勘右衛門のサインと押印のある状


 向露寺の語源を、辞書で調べると、「骸(ムクロ)」又は「ムクロジ」という植物名が出てくる。
 「骸」とは首が無い遺体等が捨てられる場所、と説明されている。
お寺の名前としては考えられるが、少し違和感がある。
「ムクロジ」は本州(新潟、茨城以南)に生息する落葉高木、昔から寺社境内に植えられ、実は黒く堅い、羽子板のはねや数珠玉等に利用された。

お釈迦様の言葉に「もし、煩悩、業区を滅ぼし去ろうと欲するなら、ムクロジの実、百八個を貫き通して輪を作り・・・」伝々とある。
(「ムクロジ」を中国では「無患子、木患子、苦患樹、油患子」と表されています、日本の本草学者が間違って「木患子」を「モクゲンジ」に充ててしまった事が知られている。)

 私の考えでは、傍示の向露寺谷は「ムクロジ」なる植物の生息地で「ムクロジ」変じて「向露寺」となり地名になった。「向露寺」なる寺が存在していたとは考えがたい。
もし寺が存在していたなら木の名前が寺の名前になったとも考えられる。ただ、「ムクロジ」が「向露寺」への成り立ちは判らない。

 向露寺の川向こうの森には「高山城跡」があり地元では「城山」、タナダ川の上流の谷を「茶屋が谷」と呼んでいる。

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                  この道を進むと茶屋ヶ谷はいる


これらは、法楽寺文書「本願寺玄海律師後任に付」(元禄6年1693)と言う相続に関する状に「城山」「茶屋が谷」の字名が出てくる。元禄時代には、すでに地名として、一般化されていたのであろう。

高山氏の没落(天正5年、1577)後、本願寺から「城の茶屋」迄の峰続きの土地は、本願寺の領地であったと考えられ、高山氏の菩提寺は、円楽寺と云われているが、家臣や家来達の墓地は、本願寺ではなかったか。今後の調査に期待する。

 大廣谷北方の、小高い丘の集落が、逢坂(おざか)と呼ばれている。その後に聳えるのが「竜王山」、高山で一番高く高山地域全体を見渡せる位置にあり、わき出る水をせき止め造られたのが「竜王池」、天保14年の絵図にはすでに描かれている。余談になるが「竜王池」の近くに、高山溜池から、送水される水路「西幹線」が、通っている事も付け加えておく。

 「高田照世著 祖霊と精霊の祭場書」の一部を引用させてもらうと、竜王山は高山八幡宮の宮山であり、宮山には八大龍王が祀られ、水の神、雨乞の神とされている、旱魃時には、八大龍王から灯明を持ち帰り、祈願すると云う雨乞儀礼が行われた。祠の前には灯籠が有り「鹿守山八大龍王御宝前六月朔日、高山村、貞享五戊辰年(1688)和劦」と書かれている。(劦=州)
 鹿守山という公称は、竜王山の入り口に当たる地区が、坂の向こうは、神の領域である事を示す、逢坂という地名を持つこと、又むやみに、龍王山に近づいてはならないと、子供の頃諫められたという地元の伝承から、此の山が、いかに神聖視されていたかが察せられる、水を司る蛇神が、山に棲まうという、原初的な聖地信仰と仏教が集合し、この山中に八大龍王を祀り、竜王山と、称するようになった。
 宮山は5年に一度サイメンアラタメ(境界杭の確認)が現在も行われていると聞く。祠の場所については不明である。

参考文献
 生駒の古道、生駒市誌(有山日記)、法楽寺文書、 生駒市古文書調査報告書、有井山家文書、
 向露寺文書、井上家文書、「祖霊と聖霊の祭場」 高田照世著 岩田書院、
 「原色日本植物図鑑」 北村四郎・村田源著 保育社、ウイキペディア(ムクロジ)等、
 高山文化研究会資料(天保14年絵図)、北倭村風俗誌調、
生駒の歴史と文化(ハンドブック)、  星宿 第7号 朝日カルチャーセンター発行、

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# by kwsan | 2016-02-16 16:46 | 歴史 | Comments(0)
古 道(中村地区周辺)


生駒民俗会発行の「生駒の古道」高山・伊勢街道を歩きその土地の歴史を振り返る。
 

高谷集落との境界を越え中村集落に入る。表通りに出るまで人家と田んぼが続く緩やかな下り坂である。

 「中村」集落の字名は、法楽寺文書「高帳」(明暦1年 1655)に記載されており、当時、中村集落として独立していたと考えられる。
また、法楽寺文書 文化四年(1807)勧進帳には「中ノ」「出谷」「木挽小谷」「高見」「風呂谷」「芦谷」「小谷」「中」「井屋本」「長谷」「野神」「向井」の小集落が存在しそれらの上に「中村」があった。

「生駒の古道」には「中村は南の鹿畑に続く、いわゆる「清水道」と「北田原、東畑」を結ぶ東西道が交差する位置にあります。嘉永元年(1848)の絵図「大和細見図」にも中継として「中村」の名が記され、かって高山交通の要衝だったことが判る」と紹介されています。天保14年の絵図にも高谷から中村を通り鹿畑に通じる道があったことが記載しており、「中村」の集落は古い時代から独立し高山の重要な中継地であったことが窺える。


集落に入る前に寄り道して中村の二月堂へ向かう。
此所は高谷集落との境界で、こんもりした森の中の高台に南向きでお堂は立っている、高台からは眼下に中村集落、田畑が見える。木々が伐採されているのでお堂の周辺は明るい。
 二月堂の祭祀は観音厨子である。地面に今は使われなくなった供台?と思われる焼き物や、灯明を点したと思われる火袋が落ち葉に埋もれている、供台?には「奉納、二月堂 明治31年1月吉日 26才男」と書かれ奉納者の名が最後に記載されている。火袋には「奉納 丹後田辺」とあり最後に文字が見えるが読めない。地元の方であろうかお堂の前には寄進者の石碑があり、表に「献燈」と有り金額と名前が刻まれている、裏には「昭和51年8月吉日」と刻まれている。
 現在、二月堂遥拝所は、集落(80戸)で祀られている、祭祀の世話役は輪番制で、法要は無縁寺の僧侶によって、8月17日の夜に行われる。当初は青年会の行事であったが、現在は集落(垣内)の行事に移ってしまった、当時は青年達の一大行事だった思われる。
 戦前には流行病、旱魃等に苦しんだとき,二月堂に籠もって護摩を焚いて祈願した、戦時中には家族の無事を祈ってお百度を踏んだと云えられている。

 この集落には「二月堂観世音菩薩遥拝所設置由緒書・中村青年会」と云う古文書が保存されている。

        峯の二月堂観世音菩薩遥拝所ノ由緒書
仰東大寺二月堂観世音菩薩遥拝所則字中村垣内ノ峯ト謂ヘル所ニ安置ナシタルハ元来同村九平氏ノ開基創立ニシテ・・・・同村ニ於テ以前少年ノ輩友連中ト名称シテ組織シ来ルニ・・・・青年会ト改称シ組織シ、前書ノ二月堂ヲ青年会へ元創立主ヨリ譲請、左ノ世話人ニ依頼シ同村ノ協賛ヲ経尚基ニ寄附ヲ受納シ・・・・就テハ諸附属献具ヲ新調シテ、爾来ハ青年会ヨリ守護スル事ニ確定シ、爰ニ紀念ノ為一書シ、保証候事
      明治参拾壱年(1891)壹月廿六日
                  高山ノ内中村
この後に世話人が7名が記載され,当時の村長の名も見える。

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中村の二月堂


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                 供 台?  
                            
                    
二月堂の西に阿弥陀寺がある。寺の沿革によると
 「今の阿弥陀寺の住所地に数百年前から峯堂(むねんど)と云う一草庵があった。この草庵を寛永年間(1624~1643)に信誉上人が増改築され佐太の来迎寺の末寺として開山された。以来十数代を経て第十九世来誉上人が寛政八年(1796)に本堂、客殿を建立され、鐘楼堂は文化二年(1805)に、表門は文化八年(1811)に、第二十世願譽上人が建立されて寺院としての外観だけを備えられた。その後第二十五世の香厳上人が寺域を広め、仏具、荘厳も整えられ境内の整備もされた」。その後、寺で起きた色々な出来事が記され、現在に至ると纏められている。
   
   名称    宗教法人 峯堂山阿弥陀寺
   宗派    浄土宗 
   本尊    阿弥陀如来座像
   檀徒    参百七拾戸  信徒 壱拾八戸
   境内    国有地  四百八十六坪



 昭和20年戦争激化のおり、空襲警報が発せられると、小学校が阿弥陀寺の下の方にあった為、小学生は阿弥陀寺の坂を駆け上り阿弥陀寺境内に逃げ込む、境内一帯大木に囲まれ薄暗く上空からは見えなかった、各班ごとに集まり、艦載機が通り過ぎるのを待って、それぞれ年長者と一緒に帰宅する。これが日課であったと古老から教わる。


阿弥陀寺の北側には高山八幡宮、富雄川の西に法楽寺がある、これらについては別の項で説明する。


二月堂のお堂から南に小高い丘が見える、そこには無縁寺墓地があり、大北地区の一部、久保地区、宮方地区の共同墓地である。
墓地の由来は、有井山家文書の「和州添下郡高山村御墓所由来」に記載されている。

       尾谷峯墓所(無縁寺墓地)由緒
 この墓地は昔山城の境にある大谷から寛永15年(1638)3月15日に和州高山郷の久保村尾谷(オダン)の峯に墓移しが行われた。
開墓(供養)は上の坊法楽寺の大阿闍梨特盛であった。

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 無縁寺についての詳しい資料は無いが色々な文献を総合す              
 ると次の様になる。 此所には切支丹の石碑があると言われているが未確認。 
  由緒 不詳
  本寺 阿弥陀寺   宗派 浄土宗
  本尊 阿弥陀如来木座像  36cm(一尺二寸) 金箔置
  信徒 150戸
  住所 高山町小字久保
  喚鐘 高さ47.3cm直径27.6cm
     池の間刻銘 和州高山村無縁寺什物 施主惣檀家中
          正空智代 安永7戊10月佛成日
    駒の爪刻銘 京大佛住西村上総大掾宗春作
この喚鐘は高山村無縁寺の什物で施主は村の檀家衆、正空智住職の時代に造られた、安永7年(1778)10月佛成。作者は京都の宗春である。
(喚鐘、半鐘、梵鐘の違いは一般的に直径で分類される)

無縁寺から東側には切池(きりけ)の集落が見える。
切池集落には行者堂なるお堂がある、高田照世氏著書によると、「切池垣内の行者堂には、高さ1m奥行き50cm程の自然石沈刻浮彫行者像が鎮座し、表に「元文3年(1738)戊午7月吉日 願主正宝院、切池俗名庄兵衛」裏に「奉造立 大峰山上三三度 為二世安楽」の銘がある。また、棟札には「天下泰平 大和高山 奉新建神変大菩薩堂字村内安全也 五穀豊就 金丸講中敬白」「我此土安穏天人常充満 其一切徳也 維持昭和31年2月26日厳修」と書かれている。
 行者像は元文3年7月、切池の庄兵衛が、大峰山上に33度参詣した記念に建立した、当時は、大峰三上参詣が流行していた事が窺える。また、行者堂は昭和31年に金丸講(キンマルコウ)が、村内安全、五穀豊穣を祈願し建立した。現在、切池集落では金丸講の活動は行われていない。


また、切池集落には電子技術発展のため昭和40年頃に出来た、電波測定所がある、此所は電気製品から発する不要な電磁波(電波)を法律上許される範囲にあるかどうか測定,判定し適合すれば証明書を発行する社団法人である。高山地区では余り知られていない。


 この建物から少し南に切池の吉兵衛さんという人が住んでいた。現在、子孫は関東圏へ移住したと聞く。 大正四年北倭郷土誌資料によると、

 吉兵衛ハ政吉ノ先代ニシテ、幕府ノ未造ヨリ維新ノ初期ニ至ル迄、旗本堀田家ノ庄屋ヲ努メ其ノ大庄屋各タリシヲ以テ、勢力権力一時隆々タルモノアリキ。俗ニ切吉ト称スルハ、其ノ居宅ガ切池ニ在ルヲ以テナリ。
    中略 
 何時ノ頃ヨリ薩摩ノ出入ヲ努メテ同藩ノ重ンスル所トナリ、彼ノ島津家ガ率先シテ始メテ堺大浜ニ洋式製糸場ヲ創立スルヤ、吉兵衛ハ挙ゲラレテ同地青木久三郎(大醤油屋)大徳(川尻筋回船問屋)ト倶ニ之ガ監督ヲ托セラレタリ。又旧主堀田主計ガ維新ノ際朝廷ニ帰順シテ少額乍ラモ家禄ヲ下賜セラレ、先祖ノ祀ヲ絶タザルヲ得シモ、実ニ吉兵衛ガ薩摩ニ対スル縁故ニ困りテ斡旋大ニ努ムル所アリタルニ頼レり。又幕府時代ニ在リテ吉兵衛ガ其ノ名義ヲ以テ堀田家ノ金札ヲ発行シ、付近一帯ニ信用ヲ得テ弘ク通用シタリ。吉兵衛又事業経営材幹ニ冨ミ、維新ノ初、率先シテ牧牛養豚ノ事ニ従ヒ、又若州(注1)ヨリ金扱(農具)及ビ鰤ヲ取寄セテ売弘メ、又米買ヒ山買イ等手出シ、且ツ京都西陣織物ニモ関係シ、其間失敗ナキニシモ非ザリシガ成功セシコトモ亦尠ナラザリシトイフ。
    中略 
金札発行ノ際ニ於ケル警護ニハ、専ラ村ノ若者ヲ徴収シテ之ニアタラシメタトイフ。
以上のように記載されている。

 生駒市の古文書調査の折、小判数枚が発見され生駒市教育委員会が保存して居ると聞く、又、薩摩藩との付き合いも、広く行われていたことが当家の文書等で判明している。又、吉兵衛が通るとき通行人は道に平伏して見送ったと地元では伝承されている。
   注1 若狭国はかって日本の地方行政区分だった令制国の一つ、
      現在の兵庫県佐用郡佐用町若州

 切池集落から市道72号線に出て京都方向、数100m先の小高い丘の上に延命地蔵がある、元は丘の麓にあったと云われている。
延命地蔵は中村集落(80戸)で祀られており、江戸期の地蔵菩薩像四体と貞享年間(1684~1688)の六字名号板碑を祭祀している。毎年7月23日の夜七時から行われる祭りには全戸がお参りして、無縁寺の僧侶と読経する。


 切池集落から少し離れた場所に「曽我のモリサン」がある。祭神は「曽我大明神」で切池集落の24戸で祀られ、9月23日道作りの後に祭りが行われる、昆布、するめ、粟、菓子、酒等を供え、輪番制の神主が祭祀を受け持ち、祝詞を上げ、その後、直会が行われる。神主には元治元年(1864)墨書銘のある御膳箱と独鈷鈴が受け継がれている。
 昔の道作りは、終了が夕方になったため祭りは夜にり、各自料理と蝋燭を持ち寄り、夜遅くまで酒宴が続いた。
 最近は道路状況も良くなり道作りは昼までには終了する。そのため祀りは午後からとなる。
 曽我のモリサンは久保地区(現在の自治区域)の外れの山中に存在し、此所を越えると大谷墓に通じる。尾谷に墓移しが行われるまでは此所に墓地があった。
 昔、社が災害に合い、別の場所に移動されたが、社の向きが悪く災難が発生、そのため社は切池集落を向く位置に修正、災難は無くなったという伝承がある。
以上は「祖霊と精霊の祭場 高田照世著」より引用。

 「道作り」高山の各地区(垣内又は集落)に於いて行われる行事である、今の様に道路が整備されていなかった頃、道が崩れ狭くなったり、穴が空いたり、で通りにくくなった部分の補修工事を集落総出で行う行事である。
日時は収穫前の9月頃から10月頃と決まっていた。

 その他に「かわぎり」という行事もある、呼び方は地区により違うかも知れないが、川に土砂、ゴミ、雑草などにより川幅が狭くなって、大水による災害防止を目的に行われる。(川を切り取ると云う意味で狭くなった部分を削り元の広さに戻す作業)作業は台風の季節前に行われるのが常である。
 現在、「道作り」「かわぎり」は高齢化、護岸のコンクリ-ト化、道路の舗装化のため一部の地区のみ行われている。


 久保地区(現在の自治区域)に「人木谷」という地名がある、昔処刑場ががあった地で「人斬谷」と呼ばれていた、何時の時代か判らないが、この字では不都合が生じるので「人木谷」と呼ばれる様になったと伝承されている。
生駒市誌に記載されている高山町小字地名図には「人木谷」なる地名は見当たらない。


参考文献 
生駒の古道、生駒市誌、法楽寺文書、有井山文書
祖霊と聖霊の祭場 高田照世著、北倭村風俗誌調、
生駒市古文書調査報告書、北倭村誌、
北倭郷土誌資料、高山文化研究会資料。


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# by kwsan | 2016-02-10 21:05 | 歴史 | Comments(0)