自然と歴史
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自然の中に歴史がある
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向露寺墓地の草刈
天気は良くないが雨は降りそうにない、村墓地(向露寺墓地)共有地の草刈、総勢11人だが、草刈り機を使えるのは8人、3人は刈り取った草を集荷し、焼却場まで運ぶ作業となる。
8時開始、1時間程で草刈は終わったが、集荷作業は、草刈より時間がかかる。
完了したのが11時、予定通りである。
4年前迄は、住職の作業だったが、住職も、寄る年波には勝てず、壇信徒の追加作業となった。
 墓地の清掃は、年1回で、通常8月1日と定められ、昭和24年から続いている恒例作業である。その以前は、史料がないので判らない。私見であるが、当時は、家畜(牛)の餌として飼育家が、刈り取り、餌代として寺に支払っていたと考えられる。現在の農業は、機械化され家畜(牛)等は、いないため、壇信徒の作業となっている。
墓地の維持費については、昭和20年代までは、麦又米で支払っていたと、記録が残っている。被農家は、現金支払いだったようだ。
 話は変わるが「念仏講」なる「講(同行という地域もある)」があった、是は、人が亡くなった場合、貧富の差により、葬式出来ない家も、昔はあった。そのため平等に葬式を出来るように考えられたもので、講で必要な経費は、平等に集められるが、此所でも麦・米・現金の三通りの支払いがあったことが、古文書等から判明している。古文書によると、我が地域の念仏講は「元文6年」(1741)以前から行われていたことも判明している。現在は、葬祭場で行われるため「講」の存在は、無くなり廃講になった地域もあり、運用されていない状態である。
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墓石ばかりで草が生えている部分は見えないが、墓地内に入るとあちこちに繁茂している草が見受けられる。

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# by kwsan | 2016-06-04 20:33 | その他 | Comments(0)
食用蛙
20数年前には、川で見かけることもなかった、大きなカエル、低い声で夏の夕方から鳴き出す、明るいときは水面から顔を覗かせ、じっとしている、足跡が聞こえると潜って姿を見せない。
 カエルは日本固有の種でなく、食用を目的として外国から持ち込まれ、大正から昭和にかけて全国に広がったと言われている。

詳しくは
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken/detail.asp?record=281

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# by kwsan | 2016-05-28 20:43 | その他 | Comments(0)
おかめ石
生駒市北部の国道165号線から、市道7号線を北進すると、川崎橋にさしかかる、橋を渡り市道65号線を進み「小字十護寺」を通り過ぎると「おかめ石」という場所にさしかかる。その先数百mで京田辺市や、精華町に入る。
 市道65号線が開通するまでは、たんぼ道でのどかな田園地であった。今は大型車が列を連ねて走る道路と化してしまった。
「おかめ石」の由来は市道65号線が出来る以前、この付近に、「おかめ」の顔そっくりの岩が道端にあった。そのため何時とは無しにこの付近を「おかめ石」と地元の人は呼ぶようになった。今はその面影はない。
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# by kwsan | 2016-05-26 21:25 | その他 | Comments(0)
夕方散歩中に見かけた亀、川上から流れてきたのか、流れに乗って川下に向かっているのか、知らないけれど、ゆうゆうと川の流れに乗っている、何処まで行くのかと、追っかけたが途中草に隠れ判らなくなった、日本固有の種なのかは知らないけど、時々大きな亀を見かける。戦後、亀は溜池で見かけるのが常であったが、最近は大きくなって飼育できなくなった亀が、川に捨てられ泳いでいるのを見かける。いずれこの亀も増水で川下に流されてしまうであろうと想像する。
13日5:45、九頭神川(昔は瀧川と言った)にて
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# by kwsan | 2016-05-13 21:22 | 爬虫類 | Comments(0)
竹林園の夕暮れ
竹藪の向こうに沈む太陽が、天気が良ければ明るく見えるのだが、今日は雲多くその姿見えず。
竹藪の向こう側には、その昔、円楽寺というお寺があった。生駒市の発掘調査では円楽寺跡地と言われる場所は確認出来なかったと記されている。しかし古文書が残っていることから円楽寺が存在していた史実はある。円楽寺は地元の豪族の菩提寺でもあり。一族の石碑が残っている。

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5月7日、笹見谷(ササガタン)にて

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# by kwsan | 2016-05-12 19:11 | 風景 | Comments(0)
東大寺 聖武祭

毎年行われている聖武祭に法楽寺(公慶上人ゆかりの寺)の檀家として参加してきた。大変な人で歩くのもままならず。住職も行列の独りとして参加されておられた。地元の無足人の方は、おられるはずなのに見落としたのか見当たらなかった。
供養後焼香が行われるが、その中に近所の方がおられた事は、誇らしいことである。観光客の中には外国の方も多く国際色豊かであった。


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http://www.todaiji.or.jp/contents/function/04syoumuki.html


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# by kwsan | 2016-05-02 20:42 | 歴史 | Comments(0)
見かけない昆虫
蚊を大きくしたような昆虫、見ているのかも知れないが、記憶にない。
蛾でも蝶でもない昆虫。図鑑で調べると、間違っているかも知れないが、マダラガガンボではないかと思う。体長は30数mmある、大きな昆虫である。
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匹に見えるが2匹が重なっている


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             上の図を拡大した


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# by kwsan | 2016-04-22 16:12 | 昆虫 | Comments(0)
チゴユリ
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ユリ科チゴユリ属
 名前の由来は、花が小さくて可愛らしく百合の稚児に似ていることから「稚児百合」と言われている。
日本全国に分布、高さ15cm~30cm、球根はなく、太い地下茎をもち、新しい芽が出ると、古い根は枯れる疑似一年草で、落葉樹林の木陰等に群落をつくる。茎の先端に1cm程の白い花を1~2輪付け、下向きに咲き撮りにくい花である、4月から6月頃に見られ、秋には黒い実を付ける。また種子繁殖も行われている。
 花は6枚の花被片、6本の雄蕊、先端が3つに別れている雌蕊、花は他の百合科の花と同じつくりになっている。
アジアと北米に15種が分布、日本では4種1変種が自生する。

絶滅危惧Ⅰ類 佐賀県、鹿児島県
危急種    長崎県
に指定されている。奈良県では危惧種であると聞いていないが、無闇に採集することは避けよう。

黒添池周辺の湿地に群落が見られるが笹などの雑草が繁殖すると姿を消してしまう。 


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# by kwsan | 2016-04-19 21:47 | 植物 | Comments(0)
ウスギヌカギバ
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薄絹鉤翅蛾(ウスギヌカギバ)
H28.3.28 am8:00頃 撮影 生駒市(ブナ科の植物が繁茂する地域の畑にいた)
天気 快晴  温度10度
成育地域 関東以南   年2回発生 4月頃と10月頃

幼虫はブナ科(アラカシ、ウラジロガシ、コナラ、ミズナラ、クヌギ)の
葉を食する。

今迄沢山の蛾を見て来たが、初めて見る蛾である。遠くから見ていると蝶と
間違う模様、近づき、よく観察すると、蝶の触角とは違うため、蛾であると判明。
名前はネットで調べた。

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# by kwsan | 2016-03-28 18:12 | | Comments(0)
富雄川 1

 高山地区内を流れる、富雄川は、一級河川として国の管理下にあり、源は高山溜池となっている。昔は「瀧
川」(たきがわ)と「美ノ原川」の合流地点から下流を「富の小川」(富雄川を意味する)と呼ばれいた。
                   
                     石橋の向谷橋 
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 現在、溜池から美ノ原川の合流点までの地域を、地元では、九頭神垣内又は九頭神谷(クヅカミダン)と呼び、川を「九頭神川」と呼んでいる。何時頃から呼ばれる様になったかは定かではないが、明治10年頃の調査資料では「九頭神川」を「瀧川」と記載されている所から、それ以後と考えられる。

                      瀧川(九頭神川)
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 美ノ原川の源は京田辺の高船、打田との境界に聳える山が分水嶺と考えられ、途中、色々な谷の流れと合流して美ノ原川となって富雄川に合流している。
                   美の原川
              

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 富雄川について、法楽寺縁起に「泉州堺北へ落ちる大和川龍田川富の小川皆一流三川の名所にて此の三つの川水上みなり法楽寺より30町北二丈餘の瀧ありこれ川の源初なり・・・」伝々。
 富の小川(富雄川)、龍田川、大和川は一つ川となって泉州の堺に流れ落ちる、その源は法楽寺北30町にある二丈余りの瀧である。
 瀧と思われる場所は、高山溜池の堤防の下、底樋出口付近と考えられる、溜池の水口は、瀧と云われている場所ではなく、ここは山を削り新たに作られた場所である。

                     高山溜池の水口

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 富雄川と「棚田川」の合流地点より上流の街道は川添にあった、それを物語るのが「向谷橋(ムカイタン橋)」である。
向谷橋は石橋で水害には強いが、川添の道路は、豪雨等の、影響を、受けやすく度々通行に支障が出た、その為、街道は新しく建設され、今の市道7号線になったと伝えられている。又、川添の家並みの一部は「坊田」から、地震の影響で井戸が涸れ、水に不自由なため移住した、その後発展し今の家並みになったと云えられている。
「坊田」には空井戸が現在も数基残っており、集落があったことを物語っている、ただ集落が何時頃発生したのかは定かではない。
 江戸時代の「坊田」は、本願寺の寺領であった、それを示す史料として「譲状之事」(正徳6年1716)が法楽寺に保存されている。寺領は状の内容から山林及び田地であって集落は確認出来ない。


 和州添下郡高山村惣絵図(以下、天保絵図と言う)の大北地区周辺では「古道(黒添池付近からタンダ橋まで)」で紹介した「棚田川」と、「奥の谷(オクンタン)」、「高谷(高谷川)」、「和田奥(前田川)」、「奥山」(鳥ヶ谷)の4個所の谷からの支流が描かれている。現在もこれらの支流は確認出来る。
「鳥ヶ谷」は地名として残っているが、近世になって開墾され田地に変り、川の面影はないが、水路の形態で残っている。その他は富雄川に対して大きな開口部が見える。

    高谷川と富雄川合流点(上)             前田川と富雄川の合流点(上)
    奥野谷から之流れ(下)                鳥ヶ谷からの流れ(下)

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 天保絵図及び明治10年頃の調査資料によると、大北地区の富雄川に架かる橋は、高谷橋、大門橋などが記載されている。
高谷橋は、元々市道7号線より、はるか下の川面に架けられ、 石柱を、並べたものであった。橋は昭和40年頃迄、原型をとどめていたが、市道65号線建設時に撤去され、その一部が残されている。
 大正から昭和になると、車時代が訪れ、アーチ形の橋が、今架かっている辺りに建設された。鹿畑地区の住人の設計と聞く、橋は川崎橋と呼ばれ、橋の名の由来は不詳。
市道65号線建設の折、アーチ形の橋では狭すぎるため、取り毀され現在の橋となる。

         川崎橋                      高谷橋の残石

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 大門橋は高山八幡宮前に架かっている橋で、石段を川面辺りまで降りたところにあった。市道7号線の建設時に石段は撤去されたが、現在、その一部は、大門橋の南側の石段に再現されている。この橋が架けられた理由として考えられるのは、富雄川より西の地域人達が八幡宮にお参りするのに遠回りしなければならない、これを解消するためと考えられる。現在、大門橋が取り外された、後高山宮橋に名前は変わっている

                    大門橋(現 高山宮橋)
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 八幡宮からこの橋を渡り西に進むと「和田」、「前田」を通る旧道に入る。大門橋から西に続く道を境にして墓地の場所が決められているが、前田川を境にして墓地を定めているとも聞く。この理由は「昔、死者を葬るとき、八幡宮の前を葬列が横断することは不浄な事と思われた」と言われている。
 有井山家文書、永代向露寺記録(元文3年1738)には「和州添下郡高山村向露寺 元来 庄田村 大北村 和田村三ヶ村之 墓所也」と記載されている。「大北村」とは「奥の谷」「大庵」「井上」を指す。
以上のように向露寺墓地を利用出来るの庄田村、大北村、和田村であると記録され、これらの地域は前田川より北側に位置する集落である。
それでは南側の集落の墓地は、何処にあるかというと、久保地区の無縁寺にある墓地になる。


 大門橋が架けられたのは向露寺墓地や無縁寺墓地が開基する以前と考えられる、向露寺墓地は元禄弐年(1689)、無縁寺は寛永15年(1638)の開基であるからそれ以前と考えてられる。


「大門」は「藤本寅雄」氏によると、此所は高山の中心部、中村に位置していて行政的位置が高山八幡宮のそばにあって核的存在であり、「カイガケ道」「郡南街道」「天王道」と交通上要衝の位置にある事から関所があった、鎌倉時代にはこうした位置に関所を設けて土地の豪族が関銭を取っていた。と綴られている。
このことから藤本氏は関所説を唱えている。


 私見であるが、現在の参道は西に向かって延びているが、鎌倉時代の参道は、真っ直ぐ南の出店まで続き、出店付近から八幡宮に向かって緩やかな昇り坂であった、参道の何処かに大きな門があり、その両側には家並みが続いていたと思われる、門は雷か戦火などにより焼失し、その後、再建されず地名のみが残ったと考えられる。


 川縁に作られた遊歩道は、平成になって造られたもので、当初の計画では、竹林園辺りまでとなっていたが、途中計画変更があり、工事は終了している。
竹林園への橋は竹林園と同時に造られ、竹林園専用となっている。

       鷹山大橋(竹林園前の橋)                富雄川の遊歩道

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 法楽寺前の橋は天保絵図及び明治10年頃の調査資料では確認出来ない。私見であるが小学校が、今の所に明治44年に八幡宮境内から移転した。建設はその頃ではないだろうか?。北小前の歩道橋は市道7号線開通後の建設。
      法楽寺前に架かる橋
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 久保地区の出店橋は古く天保時代には既に使用されていた、ブログ「古道(中村周辺)」で紹介した通り、この橋は中村地区へ入り口でもあり、高山地区の交通の要衝に架かる橋でもあった。出店橋付近には、集落的なものは無く、数件の人家のみであったと云われている。

    出店橋
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 「出店」と言う地名は、辞書によると、「店」は「見世」とも表され、人が集まる所に棚を置いて品物を売る所と説明されている、又は出見瀬と表すと浅瀬で流れが速い川辺が見える所に出られる場所、とも取れる。出店は古き時代より交通の要衝でもあり前者の意味であろう。


天保絵図には、久保地区内に流れる、中村川があり、有井山家文書に砂防工事の資料が残され、大雨などによる災害が多かったことを物語っている。その源は「ドキツカ」用水池付近の精華町東畑との境界に連なる峯が分水嶺と考えられ、途中、幾つかの谷の流れと合流して出店橋付近で富雄川に合流する。

     正面が出店橋で右の開口部が中村川
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 出店橋から中村川を越え山手に登っていくと北面の斜面に集落が続く、この一帯を「坊向(ボノカイ)」(坊の向村)と云われ、明暦元年(1655)頃には、既に独立した集落があった事が、法楽寺文書「高帳」から読み取れる。斜面を登り詰めると無縁寺とその墓地がある。


 富雄川と中村川の合流付近で「富士垢離」なる風習が行われていたと云う、それは「維新ノ頃迄行ハレタル敬神的風習ニシテ毎年8月中5日又ハ一週日ノ間篭り所ニ起臥シテ家ニ帰ラズ。身ニハ白衣ヲ着ケテ精進潔斉シ水辺ニ七五三縄を張リ(砂州ヲ穿チ屈曲シテ水ヲ導キタリト)付近ノ高所ニ弊束ヲ立テ、下リテハ水垢離ヲ取り、上リテハ弊束ヲ拝シ南無神変大権現ト唱フ・・・・出店橋ノ下ハ即チ其垢離ノ場所ナリ・・・」伝々、と生駒市誌(北倭郷土資料)に記載され、又橋の下には浅間塚という高塚も作られていたと云われている。江戸時代には高山地区の川の各所で、この風習が行われていたとも、記載されている。

 出店橋付近には、江戸時代から明治に架けて、切支丹を取り締まる為の「高札」が立てられていたと、有井山家文書に残されている。出店橋付近は、交通の要衝でもあり、色々な人が行き交うため、人目に付きやすかったのであろう。
 高山地区には寺請証文が300余通残されている、その内75%程が法楽寺に保存され、残りは傍示地区の個人宅で保存されている。その他庄田、大北、久保の各地区にも数件確認されている。

 寺請証文とは高山地区内に婚姻、丁稚、養子(女)等で移住する場合、戸籍が切支丹で無いという証明で、檀家寺が作成した「証文」である。遠くは岐阜県や石川県からの「証文」も見つかっている。

 天保絵図には「ミノ口」から北中の敷地内を通り流れる川が描かれているが、確認出来ない。今後の調査に待つ。

出店橋から50m程下流に、斜めに架かる橋は国道163号線から、北方面への迂回路として建設された道路に架かる橋である、道路は土地買収にかかる問題で未完成(平成28年3月現在)のため使用されていない。

       未完成の道路に架かる
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参考資料
 生駒市誌、生駒市古文書調査報告書、法楽寺文書
大和国町村誌集巻2、北倭村誌、有井山家文書、
ふるさと生駒の地名と私 藤本寅雄著(非売品)
和州添下郡高山村惣絵図、生駒北小学校創立百十周年記念誌、


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# by kwsan | 2016-03-11 21:05 | 歴史 | Comments(2)