自然と歴史
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寺請け証文 5

5.「寺請け証文」の内容
 法楽寺に保存されている220余件の「寺請け証文」の内、120余件の内容が紹介されている、それを分析したのが図28である。



 図28における「寺請け証文」の内容は、縁談が全体の約60%を占める、次に多いのは養女・養子・その他と続く。
グラフから判ることは、全体の60%が女性の「寺請け証文」である、このことから此の時代は男性中心の時代であった事を顕著に表している。
その他は、縁談の破棄や送り戻し等である。
 縁談の中には母親同伴で娘が嫁入するとか、50代の母親が子供を連れて再婚するとかの、「寺請け証文」も見つかっている。此の時代、女性一人では生活できなかったのであろう。30才代や40才代の女性の縁談も数件ある、これらは再婚と見て良いのではないだろうか。



図29は、養子・養女となった子供達の年齢を示す。
緑が男子、茶色が女子で数字は比率(%)を表す、これによると養子/女として出されるのは2才迄に全体の50%が、大きくなっても4才ぐらい迄に出されることが判る、男子よりも女子の方が貰われていく確率が高い。男子は働き手として残ったのであろうか。
これらの事が行われる理由は、跡継ぎがない場合や、家が貧しく育てられない場合等が考えられる。



 養子・養女の件数を元号別に表したのが図30で、表示されている内容は、元号、件数、比率(%)の順に列んで表している。江戸時代に何度となく発生した飢饉の影響について見ると、天保時代の件数が1番多いが、飢饉が発生した前後の「寺請け証文」はばらばらで纏まっておらず影響はないと思える。
次に嘉永時代の件数が多い、特に嘉永2年と4年の2年間に合計7件の養子/女の「寺請け証文」が発行されている、此の時代には飢饉が発生したと言う事実は確認出来ていない、原因については不明である。
他の年代に纏まって「寺請け証文」が発行された経緯はない、試料数が少ない為、正確な判断はできないが、これらのことを考えると飢饉の影響により養子/女の「寺請け証文」が発行されたとは思えない。



纏め
 「寺請け証文」が利用された主な理由は、婚姻に関する事が殆どで、子供が貰われていく養子・養女は4才までが大部分を占め、2才以下が特に多く、その大半は女子である。飢饉により子供が貰われていく事も考えられるが、試料が少ないためデーターとして取り出せなかった。

「寺請け証文」について、色々と分析したが試料が満足行く数量でないため、正確さをかく部分もただあるが、方向性は示せたと考えている。今後の発表される文献に期待したい。これを以て「寺請け証文」の分析は終わる。



参考文献
 生駒市古文書調査報告書Ⅲ   生駒市教育委員会


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# by kwsan | 2017-01-27 14:31 | 歴史 | Comments(0)
「寺請け証文」4 続き

 図16~27は、図5の件数の多い地域、奈良市、生駒市、枚方市、精華町、京田辺市の宗派別証文件数と宗派別寺院数を比較したものである。




図16・17は奈良市の場合。融通念仏宗寺院、浄土宗寺院、浄土真宗寺院、真宗寺院が殆どを占め特に融通念仏宗寺院は33%を占める、証文について同じ事が言える。




図18・19は生駒市の場合。融通念仏宗寺院は全体の70%であるが証文件数は全体の78%と1割ほど証文件数の比率が高くなっている。図8―1から判るように高山と傍示、上、鹿畑とは大きな街道が通っているため縁談等が特に多かった思われる。




図20・21は枚方市の場合。浄土真宗寺院は全体の53%であるが証文件数は70%と高くなっている。浄土真宗の人口が特に多い地域といえる。




図22・23は精華町の場合。此の地区も真宗寺院と浄土宗寺院のみで、浄土宗寺院が83%を占めるが、証文の浄土宗は半分になっている、前回述べたように高山町と精華町東畑はごく近い位置にあり住民の行き来が多く縁談等が頻繁に行われていたと考えられる。その為、東畑の専光寺だけで40%の証文が高山町に送られている。




図24・25は京田辺市の場合。京田辺は真宗と浄土宗以外の寺院は見当たらない、浄土宗の寺院が71%と多く証文件数も79%と多くなっている。




図26・27は京都市を示す、京都市は色々な宗派が混在しているが浄土真宗寺院と浄土宗寺院の2寺院で50%を占めるが真宗寺院がない。


纏め
 京田辺市、精華町は、真宗寺院、浄土宗寺院、に限られ、浄土真宗寺院はない、生駒市は融通念仏宗寺院が多くを占め、奈良市も宗派の違う寺院が多いが、真宗寺院、浄土宗寺院、浄土真宗寺院、融通念仏宗寺院が目立つ。
枚方市は浄土真宗寺院が圧倒的に多く、京都市は色々な宗派が混在している、しかしこの2地区は真宗寺院がは何故か見当たらない。


参考文献
 生駒市古文書調査報告書Ⅲ   生駒市教育委員会


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# by kwsan | 2017-01-22 16:06 | 歴史 | Comments(0)
「寺請け証文」4

4.「寺請け証文」の作成寺院の宗派
 法楽寺に現存する、寺請け証文を作成した寺院は130余寺院に昇、それらの宗派を調べたのが図10である。宗派の多い順に並べると、浄土宗寺院、浄土真宗寺院、真宗寺院、融通念仏宗寺院で全体の7割を占める、その他とあるのは廃寺等で宗派が不明な寺院を示す。
 図11は、現存する証文の依頼主の宗派を示したものである、図10と同じく浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、真宗、で全体の8割を占める。
 証文の依頼主の件数や寺院数も浄土宗・浄土真宗の順に多く、次に、真宗と融通念仏宗と比較すると融通念仏寺院数が少ないが証文の件数はほぼ同等、これは融通念仏宗の人口が多いと考えられる。






 図12~15は、図10における寺院が、どの地域に分布しているかを調べたものである。


 図12は浄土宗寺院の分布を示す、京都市が全体の約4分の1を占める、次に京田辺、精華町、枚方市と続き、此の4市で全体の60%以上を占め、京都市・京都府南部及び北河内地方、特に大阪府東部の生駒山に面した地域に広く分布していることが判る。



 図13は浄土真宗寺院の分布を示す、特に高いのは枚方市で次に、大東市、東大阪市と続き、此の3市で全体の約50%を占め、全体的に見ると大阪府東部に集中し、北河内地方に多く分布している。



 図14は、真宗寺院の分布を示す、特に多いのは門真市・大東市で、次に京都市と続く、此の3市で全体の約60%を占める、真宗寺院は京都府南部から北河内にかけて多いことが判る、特別多いと言う地域はなく北河内や京都府南部にも広く分布している。



 図15は、融通念仏宗寺院の分布を示す、生駒市、奈良市とで全体の80%を占める。特に生駒市は全体の60%を占めおり、現在でも富雄川流域・生駒谷に集中して分布している。


纏め
浄土宗寺院・真宗寺院は京都市から京都府南部・北河内方面、特に生駒山の裾野に広がる地域に広く分布、浄土真宗寺院は高山町と接する(生駒市以外)高山町に近い地域に広く分布している、13図からも変わるように、枚方市は特に多い地域である。
融通念仏宗寺院は奈良県北部、特に生駒市に多く分布している。
 宗門壇那請合之掟に、不受不施派の日蓮宗に対しては幕府は「寺請け証文」の発行を禁止をしていたが、法楽寺文書の中に見える、文面等については未確認であるが、今後の調査の対象としたい。

参考文献
 生駒市古文書調査報告書Ⅲ   生駒市教育委員会




































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# by kwsan | 2017-01-22 15:49 | 歴史 | Comments(0)
寺請け証文3

3.「寺請け証文」の発信地は何処か?


 法楽寺には200余件の「寺請け証文」が現存する、その発信地について顕彰する。



 図5のグラフは、発信地を地域別に現したもので、地元の生駒市が41件と一番多く、全体の約5分の1を占める、(但し、高山町から送り出された件数も含む)、次に枚方市、京田辺市、精華町、京都市、奈良市、と続く、特に枚方市、京田辺市は村切りなどがあり、合併を重ね地域が広くなったので、件数も多い。
 遠くは岐阜県(農州関ヶ原の宿)・石川県(能州川嶋村)・兵庫県加古川市(播州加古郡別符村)等が見られる。これらの地域と高山町(和州添下郡高山村)とはどのような接点があったのだろう。今では車で数時間の距離であるが、その当時は、道路もなく、道中の危険もあり、多くの日数を経てやってきたであろう。これらの3件は全て縁談で石川県が男性、他は女性である。これらの末柄が見つかれば先祖の話を聞いてみたいものだ。


 図6は、発信地を府県別に表したもので、大阪府が全体の5分の2を占めている。奈良県、京都府は、ほぼ同率、大阪府東部が多いのは高山町に接する面積が広く、接続される街道(清滝街道、群山街道、磐船街道等)も多く庶民の交流が盛んであったと考えられる。


 図7は、図6から大阪府のみを取りだして、大阪府の地域を比率で表したものである。
 大阪府の中では枚方市が4分の1を占めている、次に門真市、大東市、交野市、四条畷市と続く。
枚方市、交野市はカイガケ道や群山道を、門真市、大東市、四条畷市等は清滝峠道を、経て高山町への行き来が盛んだったと思われる。


 図8は、図6から奈良県を取りだし、奈良県の地域を比率で表したもので、生駒市が半分以上を占めている、次に奈良市、郡山市と続く、奈良市との交通は一条街道を通っての行き来が盛んだった。
奈良市(南都)へは奈良時代の古くからの接点がある、地元の豪族鷹山氏は奈良市の窪之庄との繫がりもあり、それらの影響もあって比率も高くなっていると考えられる。郡山については群山道を通ったと思われるが古くからの接点は見つけにくい。


 図8―1は図8の生駒市の地域を表す。これによると、富雄川沿いの谷である上村や傍示村の比率が高く、生駒谷の比率は少ない、鹿畑村や南田原村は富雄川沿いの谷ではないが、高山村に接しているので比率も高い。グラフの中で、高山村とあるのは、高山村から出ていった比率である、図8-2にその内容を示す。


 図8-2の件数(9件)は控えとして現存しているもので、資料としては少なく正確とは言えないが、高山村から出て行った地域は、主に東西に別れ、南北には見当たらない。


図9は、図6から京都府を取りだし、京都府を地域別に表したものである。
京田辺市、京都市、精華町は同じ比率である、精華町との行き来は今も続いており、図8―2からも判るように東畑と高山町との縁談は特に多い。

纏め
全般に送られてくる地域は山間部が多く、特に枚方市、京田辺市、交野市、精華町等がそれに当たる。
それらの地域は、働く田畑が限定され、また開墾する土地も少なく、分家しても生活するための田地は、確保できなかった、そのため、生活するには、生まれた地域から出ていくしか方法がなかったと考えられる。出て行くにも遠くへは行けないので、隣接する地が、選ばれたと考えられる。



参考文献
生駒市古文書調査報告書1~4  生駒市教育委員会
生駒誌史            生駒市教育委員会




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# by kwsan | 2017-01-18 20:53 | 歴史 | Comments(0)
寺請け証文 2
2.「寺請け証文」の保存場所
 生駒市高山地区(傍示地区含む)で確認されている「寺請け証文」は明和4年頃(1767)からで、総件数は300余通であるが、まだ調査されていない部分も有り、実際はこれよりも多く現存していると考えられる。
 図1のグラフは高山地区と傍示地区に現存する「寺請け証文」の件数を比較したのである。
江戸時代、傍示地区と高山地区は互いに独立した地域で有り、高山地区は傍示地区より人口も多く、「寺請け証文」も230余通の件数が確認されている、現在その9割が高山地区の法楽寺に現存している。



 図2は、高山・傍示両地区に現存する「寺請け証文」の総件数を明和2年(1765)から10年毎に集計したグラフである、此のグラフから文政、天保の時代が特に多く、その後、減少して明治の初めまで続いている事が判る。



 図3は、図2から傍示地区の部分を抜き出したグラフである。
傍示地区は、3軒の地主により保管されている。
KM家には1771~1788代の「寺請け証文」が、Y家には1794~1870代の「寺請け証文」が現存し、東方の堀田氏領に属していた、西方の森氏領に属していたKS家には1787~1838代の「寺請け証文」が現存する。


 図3-1は、傍示地区の3軒が保存する割合を示したグラフである、このグラフからY家は全体の70%を保存している。
 図3のY家のグラフは、図4の法楽寺のグラフに良く似ており、Y家と法楽寺が、長期に渡り「寺請け証文」に関与していたと考えられる。
 「宗門人別帳」・「宗門壇那請合之掟」はKS家に現存し、T家には「宗門人別帳」のみ現存する、KS家・T家供、西方の森氏領に属していた。しかし、「寺請け証文」が多く残しているY家・KM家には見当たらない、傍示地区はどのような方法で宗門改めを行っていたのだろうか疑問に残る、今後の調査をまちたい。
 傍示地区には「西方寺」なる寺が現存するが、戦後まもなく火災に遭遇、古文書等は焼失した可能性があり、「寺請け証文」も焼失したと考えられるが、一部は、KS家・KM家に残されている。法楽寺には「宗門人別帳」・「宗門壇那請合之掟」の両方とも現存するが、高山八幡宮には寛文時代~天明時代の約1世紀に亘り「宗門人別帳」が残されている、江戸期の高山八幡宮は、法楽寺の僧侶が、神主を兼ねていた為と考えられる。



 図4は、高山の法楽寺に現存している「寺請け証文」の件数を、図2から抜き出したグラフである。傍示地区と同じく、明和から始まり、文政・天保で最高となり、弘化、安政の時代から減少しながら明治まで続き、明治4年9月で終わっている。
 法楽寺が保存している件数が220余軒(70%以上)と多く、分析数量として適しているので、図4のグラフについて、その発信地域・宗旨・証文の内容等について、数回に分けて次回から順次UPの予定をしている。




参考文献
   生駒市古文書調査報告書1~4  生駒市教育委員会
生駒市誌    生駒市教育委員会

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# by kwsan | 2017-01-13 16:08 | 歴史 | Comments(0)
寺請け証文

 参代将軍、家光の時代、切支丹信仰が強くなり幕府も困り果て、その結果、考え出されたのが、赤ん坊から年寄りまで、仏教徒として管理する「寺請」制度で、この世に生ける全ての庶民は、檀家寺を持つように定められた。
 檀家寺に登録されている庶民が、結婚、養子、丁稚等の為、住居地から離れる場合、檀家寺が切支丹でないと言う証明書を作成し保証したのである。此の証明書を「寺請け証文」と言う。


 檀家寺に登録されている全ての者は「宗門人別帳」に記載され、死亡すると「宗門人別帳」から抹消される、死後の名前「戒名」が付けられ過去帳に記載され「位牌」が作られた、「位牌」は庶民の家々で祀られるようになり、又、お布施、先祖の仏事(葬儀、年忌、月命日等)が強制され、他寺への法事の依頼・離壇の禁止が義務づけられた、檀家寺は生まれてから死ぬまで庶民を管理する、今で言う戸籍管理の権限を得たのである、庶民に「戒名」「位牌」が広まったのもこの頃と言われている。ここで言われている「戒名」は仏弟子となる「戒名」でなく、寺請制度のなかで付けられた、仏教教団から押しつけ官制戒名とでも言うべきでしょう。
 庶民が行方不明になった場合は、「宗門人別帳」から抹消され無宿人として取り扱われ元の地には戻れなかった。


 仏教教団はこれらのことを細かく取り決めた「神君様御条目15箇条」(宗門壇那請合之掟)を慶長18年(1613)付けで作成し家康により出されたことにしている、幕府は、切支丹、不受不施派、悲田宗からの影響をなくし、幕府を安定させるため、此の掟によって庶民を縛ったのである。しかし此の文章の年号は偽文書であり、実際は享保20年(1735)前後の作成と言われている。
「宗門壇那請合の掟」は各地の寺院、庄屋等宗門改めを行う立場にあったものが所蔵していた。

図1は、生駒市高山地区の法楽寺に現存する「宗門壇那請合之掟」の一部分である。初めの部分には次のような記載がある。
 1.切支丹之法死を不顧火に入れても不焼水に入れても不溺身より血を出して死をなすを成仏と建る故天下之法度厳密也実に邪宗なり依之死を軽する者可遂吟味事
 1.切支丹に元附ものは闥單国より毎月金七厘を與へ天下を切支丹国・・・・

 西脇修氏は「宗門壇那請合之掟を読む」のなかで次の様に纏められている。
(1)殉死宗教の禁止
(2)キリシタンは神国誹謗者仏教不信仰者
(3)寺院不参拝者は吟味
(4)先祖年忌の不勤めは邪宗門
(5)檀家役不勤めは不受不施派
(6)寺への不受不施者は吟味
(7)キリシタン・悲田宗・不受不施派は一派で邪宗門
(8)代々檀家でも子供は吟味
(9)檀家勤めが邪宗門否定の証明
(10)頭剃刀は検視、その後戒名授与と引導
(11)頭剃刀は検視と宗門証明
(12)他寺への仏事依頼の禁止、他国での死者は吟味
(13)健康者で寺院不参は吟味
(14)葬儀は檀那寺執行、邪宗門は宗門改め役へ報告後葬儀執行。
 掟の末には十五条とあるが十四条であるのは「廉書き」であるから一条欠落したか、もしくは合併している可能性もある。
と述べられいる。

図1 宗門壇那請合之掟

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図2は法楽寺に現存する「寺請け証文」の1例である。
 河州河内国善根寺村(東大阪市善根寺)の善根寺が和州高山村(生駒市高山町)の法楽寺にあてた証文で「天保4年1月」の日付けで「河州河内国善根寺村、久兵衛の倅○○(融通大念仏宗)は、6才になったので、和州高山村の伊左衛門方に養子に出すので手続きを願う」と言うようなことが書かれている。

「寺請け証文」の提出は寛永10年(1633)頃から始まり、「宗門人別帳」が作成され始めたのは万治3年(1660)頃と言われているが、生駒市高山町地区(傍示地区含む)では掟が出されてから約30年後からの文書が見つかっている。
 高山地区には明和4年(1767)から明治4年(1871)迄の「寺請け証文」が現存し、件数は300余通に昇、未調査の部分も残っているため、これより多くなる可能性はあるが、今回は此の件数で調査分析を行う。


図2 寺請け証文
「宗門送り手形之事」

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参考文献
  法楽寺文書 法楽寺
 「宗門壇那請合掟」をめぐる諸問題 南郷晃子著
 「宗門壇那請合之掟」を読む 西脇修著
  金光泰観墓相研究所のHP お墓の歴史
 「お坊さんが困る仏教の話」村井幸三著
 「お坊さんが隠すお寺の話」村井幸三著
 「戒名は自分で決める」島田祐巳著
 「なぜ死後に名前を変えるのか」島田祐巳著
 「葬儀と日本人」菊池章太著
 「お葬式と日本史」新谷尚紀著
 「六大宗派でこんなに違うお葬式のしきたり」
                   渋谷申博著
 「戒名のはなし」藤井正雄著
 



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# by kwsan | 2017-01-08 15:58 | 歴史 | Comments(0)
平成28丁酉年の初詣
地元の神社(高山八幡宮)と法楽寺(檀家寺)の初詣でに出掛ける。
拝殿の前はお参りの列が長く続く、家族ずれが多く小さい子供が目に付く、賽銭を投げ入れているのか、賽銭箱の中を転がる音が響く。
 お参り客の中で、数人が互いに呼び合い、拝殿の右手に何か祀られているのか、お参りしている、此の団体が祀ってい神様は、階段の下にあることは知っているが、此所にあることは知らなかった。
 数年前、四国霊場に出掛けた時、先達さんから「賽銭は投げ入れるものではない」と教えられ今も実行しているが、世間一般は賽銭箱の音が賑やかである。
 無音だと賽銭をしていないように思える、でも札なら無音で高額だ、賑やかな方か、静かなほうか、神様はどちらを好まれるのだろうか。そんか事を考えながら石段を下りる。
 法楽寺に着くと、此所も鐘をつくのに長い行列だ、八幡宮とは違う客層、お宮では家族ずれが多く見られたが、法楽寺では中学生や高校生の友人同士が多く見かけた。
 境内に入り鐘を撞いてお参りをするのだが、今年は、お参りが先になってしまった。車で坂道を下りながら、来年は手順を守ろうと思いながら帰宅。

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# by kwsan | 2017-01-01 19:18 | その他 | Comments(0)
紅葉
12月3日早朝、朝日が昇り初め弱々しい光に照らされた紅葉、緑の中に良く映える。此の美しさいつまで続くのやら。

南から北向いて撮影
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北から南向いての撮影
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# by kwsan | 2016-12-05 09:20 | 風景 | Comments(0)
嘉永の椀入れ

 本願寺お堂に使わな無くなった小さい木箱(295W×154W×235H×10T 杉板で作られている)がある。これには以下の銘がある。

      
      嘉永二酉年 五月四日求之 (1849)
      常楽寺 祐善代
      朱 菓子椀十人前入

 
箱に記載された常楽寺は、何処にあるのか、これだけでは見当が付かない。まず本寺の法楽寺文書を調べると、常楽寺に関する文書が7点ほど見つかった。これらの文書は常楽寺が受け取った文書で法楽寺とは何ら関係のない文書である。何故、法楽寺に保存されているのかは判らないが、文書には年代を表す文字や、住職(祐善)なる人物を確定する文字もない、「常楽寺 郡山9条平野町」と場所は記載されている。
 調べると、現在の大和郡山市九条平野町、であることが判った。大和郡山市の歴史事典によると、「平野町は天明6年(1786)の調査で、町の長さ171間5尺、道幅2間半、持家76軒、借家58軒となっている、明治17年、九条村に、何和町、平野町が合併し九条村と改称。常楽寺は真言宗仁和寺末で、現在、廃寺(廃寺期不明)になっており、平野西山にあって寛文年間(1661-1673)僧英秀中興と伝えられている。」


次に、僧侶については、本願寺の「仏涅槃図」に「祐善」の名がみえ、文化14年(1817)とある。また法楽寺文書「祈祷御土祭之法」にも見えるが年代の記載は無い。箱に書かれている僧侶「祐善」は1850年頃に生存した僧侶と考えられるが、法楽寺文書や本願寺の仏涅槃図の「祐善」と箱に見られる「祐善」と同一人物かどうかは不明。

此の箱が何故本願寺に残されているのか、又本願寺に何時頃持ってこられたかについては不明。法楽寺住職によると、昔、寺で大きな行事を行う時、必要な品物がない場合、寺間で借り貸しを行うが返却を忘れたりすることがある、又寺が廃寺となると、寺の什物は必然的に他の寺に移動する。事も考えられる。


 今回の調査で判明したことは、常楽寺が大和郡山に存在した史実のみで、他の内容については今後の調査に期待する。

参考文献
 法楽寺文書、歴史事典(ふるさと大和郡山)

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# by kwsan | 2016-11-26 21:48 | 歴史 | Comments(0)
本願寺の開帳に参加して
4年に一度(閏年)、高山町の本願寺の秘仏、開帳法要が昨日行われた。この秘仏は数百年の間、人前に現れることはなかった、秘仏の扉を開くと、病気になるとか、目がつぶれるとか、兎に角、災いが降りかかると村人達の間に言い伝えられてきた。扉を開くことを恐れさす意味はわからないが、何か理由が有ったと思われる、その理由は今もわからない。
ところが今から10数年前、生駒市の教育委員会や寺の関係者で扉を開いてみた。仏像は石仏の地蔵菩薩像で「永正元年」の銘が見つかった。おおよそ500年前ら作られたものと判明、作者や作られた理由などは詳しいことは判らない。重量は約100kg程。簡単には動かせる事は出来ない。
 その後お堂の痛みが激しく倒壊する恐れが出てきたので新しく客殿が作られた。新しい場所に移したその年がたまたま閏年だったので、開帳法要が閏年に行われるようになった。
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# by kwsan | 2016-11-20 20:53 | 歴史 | Comments(0)