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寺請け証文 2
2.「寺請け証文」の保存場所
 生駒市高山地区(傍示地区含む)で確認されている「寺請け証文」は明和4年頃(1767)からで、総件数は300余通であるが、まだ調査されていない部分も有り、実際はこれよりも多く現存していると考えられる。
 図1のグラフは高山地区と傍示地区に現存する「寺請け証文」の件数を比較したのである。
江戸時代、傍示地区と高山地区は互いに独立した地域で有り、高山地区は傍示地区より人口も多く、「寺請け証文」も230余通の件数が確認されている、現在その9割が高山地区の法楽寺に現存している。



 図2は、高山・傍示両地区に現存する「寺請け証文」の総件数を明和2年(1765)から10年毎に集計したグラフである、此のグラフから文政、天保の時代が特に多く、その後、減少して明治の初めまで続いている事が判る。



 図3は、図2から傍示地区の部分を抜き出したグラフである。
傍示地区は、3軒の地主により保管されている。
KM家には1771~1788代の「寺請け証文」が、Y家には1794~1870代の「寺請け証文」が現存し、東方の堀田氏領に属していた、西方の森氏領に属していたKS家には1787~1838代の「寺請け証文」が現存する。


 図3-1は、傍示地区の3軒が保存する割合を示したグラフである、このグラフからY家は全体の70%を保存している。
 図3のY家のグラフは、図4の法楽寺のグラフに良く似ており、Y家と法楽寺が、長期に渡り「寺請け証文」に関与していたと考えられる。
 「宗門人別帳」・「宗門壇那請合之掟」はKS家に現存し、T家には「宗門人別帳」のみ現存する、KS家・T家供、西方の森氏領に属していた。しかし、「寺請け証文」が多く残しているY家・KM家には見当たらない、傍示地区はどのような方法で宗門改めを行っていたのだろうか疑問に残る、今後の調査をまちたい。
 傍示地区には「西方寺」なる寺が現存するが、戦後まもなく火災に遭遇、古文書等は焼失した可能性があり、「寺請け証文」も焼失したと考えられるが、一部は、KS家・KM家に残されている。法楽寺には「宗門人別帳」・「宗門壇那請合之掟」の両方とも現存するが、高山八幡宮には寛文時代~天明時代の約1世紀に亘り「宗門人別帳」が残されている、江戸期の高山八幡宮は、法楽寺の僧侶が、神主を兼ねていた為と考えられる。



 図4は、高山の法楽寺に現存している「寺請け証文」の件数を、図2から抜き出したグラフである。傍示地区と同じく、明和から始まり、文政・天保で最高となり、弘化、安政の時代から減少しながら明治まで続き、明治4年9月で終わっている。
 法楽寺が保存している件数が220余軒(70%以上)と多く、分析数量として適しているので、図4のグラフについて、その発信地域・宗旨・証文の内容等について、数回に分けて次回から順次UPの予定をしている。




参考文献
   生駒市古文書調査報告書1~4  生駒市教育委員会
生駒市誌    生駒市教育委員会

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# by kwsan | 2017-01-13 16:08 | 歴史 | Comments(0)
寺請け証文

 参代将軍、家光の時代、切支丹信仰が強くなり幕府も困り果て、その結果、考え出されたのが、赤ん坊から年寄りまで、仏教徒として管理する「寺請」制度で、この世に生ける全ての庶民は、檀家寺を持つように定められた。
 檀家寺に登録されている庶民が、結婚、養子、丁稚等の為、住居地から離れる場合、檀家寺が切支丹でないと言う証明書を作成し保証したのである。此の証明書を「寺請け証文」と言う。


 檀家寺に登録されている全ての者は「宗門人別帳」に記載され、死亡すると「宗門人別帳」から抹消される、死後の名前「戒名」が付けられ過去帳に記載され「位牌」が作られた、「位牌」は庶民の家々で祀られるようになり、又、お布施、先祖の仏事(葬儀、年忌、月命日等)が強制され、他寺への法事の依頼・離壇の禁止が義務づけられた、檀家寺は生まれてから死ぬまで庶民を管理する、今で言う戸籍管理の権限を得たのである、庶民に「戒名」「位牌」が広まったのもこの頃と言われている。ここで言われている「戒名」は仏弟子となる「戒名」でなく、寺請制度のなかで付けられた、仏教教団から押しつけ官制戒名とでも言うべきでしょう。
 庶民が行方不明になった場合は、「宗門人別帳」から抹消され無宿人として取り扱われ元の地には戻れなかった。


 仏教教団はこれらのことを細かく取り決めた「神君様御条目15箇条」(宗門壇那請合之掟)を慶長18年(1613)付けで作成し家康により出されたことにしている、幕府は、切支丹、不受不施派、悲田宗からの影響をなくし、幕府を安定させるため、此の掟によって庶民を縛ったのである。しかし此の文章の年号は偽文書であり、実際は享保20年(1735)前後の作成と言われている。
「宗門壇那請合の掟」は各地の寺院、庄屋等宗門改めを行う立場にあったものが所蔵していた。

図1は、生駒市高山地区の法楽寺に現存する「宗門壇那請合之掟」の一部分である。初めの部分には次のような記載がある。
 1.切支丹之法死を不顧火に入れても不焼水に入れても不溺身より血を出して死をなすを成仏と建る故天下之法度厳密也実に邪宗なり依之死を軽する者可遂吟味事
 1.切支丹に元附ものは闥單国より毎月金七厘を與へ天下を切支丹国・・・・

 西脇修氏は「宗門壇那請合之掟を読む」のなかで次の様に纏められている。
(1)殉死宗教の禁止
(2)キリシタンは神国誹謗者仏教不信仰者
(3)寺院不参拝者は吟味
(4)先祖年忌の不勤めは邪宗門
(5)檀家役不勤めは不受不施派
(6)寺への不受不施者は吟味
(7)キリシタン・悲田宗・不受不施派は一派で邪宗門
(8)代々檀家でも子供は吟味
(9)檀家勤めが邪宗門否定の証明
(10)頭剃刀は検視、その後戒名授与と引導
(11)頭剃刀は検視と宗門証明
(12)他寺への仏事依頼の禁止、他国での死者は吟味
(13)健康者で寺院不参は吟味
(14)葬儀は檀那寺執行、邪宗門は宗門改め役へ報告後葬儀執行。
 掟の末には十五条とあるが十四条であるのは「廉書き」であるから一条欠落したか、もしくは合併している可能性もある。
と述べられいる。

図1 宗門壇那請合之掟

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図2は法楽寺に現存する「寺請け証文」の1例である。
 河州河内国善根寺村(東大阪市善根寺)の善根寺が和州高山村(生駒市高山町)の法楽寺にあてた証文で「天保4年1月」の日付けで「河州河内国善根寺村、久兵衛の倅○○(融通大念仏宗)は、6才になったので、和州高山村の伊左衛門方に養子に出すので手続きを願う」と言うようなことが書かれている。

「寺請け証文」の提出は寛永10年(1633)頃から始まり、「宗門人別帳」が作成され始めたのは万治3年(1660)頃と言われているが、生駒市高山町地区(傍示地区含む)では掟が出されてから約30年後からの文書が見つかっている。
 高山地区には明和4年(1767)から明治4年(1871)迄の「寺請け証文」が現存し、件数は300余通に昇、未調査の部分も残っているため、これより多くなる可能性はあるが、今回は此の件数で調査分析を行う。


図2 寺請け証文
「宗門送り手形之事」

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参考文献
  法楽寺文書 法楽寺
 「宗門壇那請合掟」をめぐる諸問題 南郷晃子著
 「宗門壇那請合之掟」を読む 西脇修著
  金光泰観墓相研究所のHP お墓の歴史
 「お坊さんが困る仏教の話」村井幸三著
 「お坊さんが隠すお寺の話」村井幸三著
 「戒名は自分で決める」島田祐巳著
 「なぜ死後に名前を変えるのか」島田祐巳著
 「葬儀と日本人」菊池章太著
 「お葬式と日本史」新谷尚紀著
 「六大宗派でこんなに違うお葬式のしきたり」
                   渋谷申博著
 「戒名のはなし」藤井正雄著
 



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# by kwsan | 2017-01-08 15:58 | 歴史 | Comments(0)
平成28丁酉年の初詣
地元の神社(高山八幡宮)と法楽寺(檀家寺)の初詣でに出掛ける。
拝殿の前はお参りの列が長く続く、家族ずれが多く小さい子供が目に付く、賽銭を投げ入れているのか、賽銭箱の中を転がる音が響く。
 お参り客の中で、数人が互いに呼び合い、拝殿の右手に何か祀られているのか、お参りしている、此の団体が祀ってい神様は、階段の下にあることは知っているが、此所にあることは知らなかった。
 数年前、四国霊場に出掛けた時、先達さんから「賽銭は投げ入れるものではない」と教えられ今も実行しているが、世間一般は賽銭箱の音が賑やかである。
 無音だと賽銭をしていないように思える、でも札なら無音で高額だ、賑やかな方か、静かなほうか、神様はどちらを好まれるのだろうか。そんか事を考えながら石段を下りる。
 法楽寺に着くと、此所も鐘をつくのに長い行列だ、八幡宮とは違う客層、お宮では家族ずれが多く見られたが、法楽寺では中学生や高校生の友人同士が多く見かけた。
 境内に入り鐘を撞いてお参りをするのだが、今年は、お参りが先になってしまった。車で坂道を下りながら、来年は手順を守ろうと思いながら帰宅。

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# by kwsan | 2017-01-01 19:18 | その他 | Comments(0)
紅葉
12月3日早朝、朝日が昇り初め弱々しい光に照らされた紅葉、緑の中に良く映える。此の美しさいつまで続くのやら。

南から北向いて撮影
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北から南向いての撮影
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# by kwsan | 2016-12-05 09:20 | 風景 | Comments(0)
嘉永の椀入れ

 本願寺お堂に使わな無くなった小さい木箱(295W×154W×235H×10T 杉板で作られている)がある。これには以下の銘がある。

      
      嘉永二酉年 五月四日求之 (1849)
      常楽寺 祐善代
      朱 菓子椀十人前入

 
箱に記載された常楽寺は、何処にあるのか、これだけでは見当が付かない。まず本寺の法楽寺文書を調べると、常楽寺に関する文書が7点ほど見つかった。これらの文書は常楽寺が受け取った文書で法楽寺とは何ら関係のない文書である。何故、法楽寺に保存されているのかは判らないが、文書には年代を表す文字や、住職(祐善)なる人物を確定する文字もない、「常楽寺 郡山9条平野町」と場所は記載されている。
 調べると、現在の大和郡山市九条平野町、であることが判った。大和郡山市の歴史事典によると、「平野町は天明6年(1786)の調査で、町の長さ171間5尺、道幅2間半、持家76軒、借家58軒となっている、明治17年、九条村に、何和町、平野町が合併し九条村と改称。常楽寺は真言宗仁和寺末で、現在、廃寺(廃寺期不明)になっており、平野西山にあって寛文年間(1661-1673)僧英秀中興と伝えられている。」


次に、僧侶については、本願寺の「仏涅槃図」に「祐善」の名がみえ、文化14年(1817)とある。また法楽寺文書「祈祷御土祭之法」にも見えるが年代の記載は無い。箱に書かれている僧侶「祐善」は1850年頃に生存した僧侶と考えられるが、法楽寺文書や本願寺の仏涅槃図の「祐善」と箱に見られる「祐善」と同一人物かどうかは不明。

此の箱が何故本願寺に残されているのか、又本願寺に何時頃持ってこられたかについては不明。法楽寺住職によると、昔、寺で大きな行事を行う時、必要な品物がない場合、寺間で借り貸しを行うが返却を忘れたりすることがある、又寺が廃寺となると、寺の什物は必然的に他の寺に移動する。事も考えられる。


 今回の調査で判明したことは、常楽寺が大和郡山に存在した史実のみで、他の内容については今後の調査に期待する。

参考文献
 法楽寺文書、歴史事典(ふるさと大和郡山)

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# by kwsan | 2016-11-26 21:48 | 歴史 | Comments(0)
本願寺の開帳に参加して
4年に一度(閏年)、高山町の本願寺の秘仏、開帳法要が昨日行われた。この秘仏は数百年の間、人前に現れることはなかった、秘仏の扉を開くと、病気になるとか、目がつぶれるとか、兎に角、災いが降りかかると村人達の間に言い伝えられてきた。扉を開くことを恐れさす意味はわからないが、何か理由が有ったと思われる、その理由は今もわからない。
ところが今から10数年前、生駒市の教育委員会や寺の関係者で扉を開いてみた。仏像は石仏の地蔵菩薩像で「永正元年」の銘が見つかった。おおよそ500年前ら作られたものと判明、作者や作られた理由などは詳しいことは判らない。重量は約100kg程。簡単には動かせる事は出来ない。
 その後お堂の痛みが激しく倒壊する恐れが出てきたので新しく客殿が作られた。新しい場所に移したその年がたまたま閏年だったので、開帳法要が閏年に行われるようになった。
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# by kwsan | 2016-11-20 20:53 | 歴史 | Comments(0)
年代の調査

 生駒市高山町の本願寺で、写真のような文字が書かれた、板きれ(280?×139×6の杉板)1図を、堂内で発見、はたして之は何時頃の代物だろうか調査する。

1図から、   ○3癸酉歳   東光寺
         ○月28日     兼持時
      ○福寺什物    祐遍求之
となり、お寺のお椀などが保管されていた箱の底と思われる。
     
            1図

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 板きれに書かれた寺院は「東光寺」「○福寺」の二寺、これらのお寺が何処にあるか調べると、別の箱に「東光寺 南田原村 祐慶」と書かれているのが見つかる。


 奈良県と大阪府の府県境を流れている天の川付近一帯を中世では、田原鄕と呼ばれ後に田原西郷、田原東郷、になり、田原西郷は西田原村、田原東郷は東田原村と呼ばれ、西田原村(現四条畷市)は慶安4年(1651)に下田原村、上田原村に分離、東田原村(現生駒市)は延宝6年(1678)北田原村、南田原村に分離。と言うことが判った。その南田原村には「岩藏寺」がありその境内に現在は廃寺となった東光寺、真福寺、常福寺が見つかった。「兼持時」と書いていることから二つの寺院は近くにあると考えられるので「○福寺什物」と書かれた寺院は「真福寺」か「常福寺」のどちらかであると思われる。


                2図

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 次に2図に「癸酉(みずのととり)歳」とある干支について年代を調べると  「永正10年(1513)」、「天正元年(1573)」、「寛永10年(1633)」、「元禄6年(1693)」、「宝暦3年(1753)」、「文化10年(1813)」、「明治6年(1873)」、の歳が上げられ、「○○三」とあるので年代は「宝暦三年」と考えられるが、3図から「三」の上の文字は「暦」に見えない。


3図  
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次に板きれの文字は「祐遍」なる僧侶が書いたことには間違いないが、「祐遍」について年代を割りだそうと考えたが、その史料は見つからなかった。しかし、別の箱には「祐慶」の僧侶の名がみえる、「祐遍」と「祐慶」は子弟の関係ではないかと考え、「祐慶」について法楽寺文書を調べると、元文元年(1736)と亨和2年(1802)の古文書に見える、生駒市誌には天保10年(1839)に「法印祐慶」が見える。しかし、「祐慶」と「法印祐慶」は100年あまりの開きがあるため同一人物とは考えにくい。


以上の様に色々と調べたが「○福寺」及び年代は最後まで確定出来なかったが年代は1750年頃ではないかと思える。
コメントいただけば幸いです。



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# by kwsan | 2016-11-15 21:31 | 歴史 | Comments(0)
本願寺開帳
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生駒市高山町の本願寺に寛政以前から秘仏として祀られている、石造地蔵菩薩が近年閏年に扉が開けられ平成28年11月19日午後1時頃から法要が営まれる。 開帳されている時間帯は午前10時から3時まで、法要中は室内に入室出来ませんがそれ以外は入室して拝観できます。 石造地蔵菩薩には「永正元年」の銘があり興味のある方は来寺下さい。

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# by kwsan | 2016-11-07 20:52 | 歴史 | Comments(0)
境内の草刈
毎年本願寺境内の草刈が11月に行われる。それが今日1時からである、今回は、草刈と樹木伐採作業が追加された。道路にはみ出した枝、畑にせり出した枝等が周辺の方から伐採して欲しいとの要望が前前から出ていたが、中々その機会が無く今日実施された。草刈は数日前に50%程は済ませていたので、作業は伐採作業が主となった。畑にはみ出した樹木の付近にはオオスズメばち(親指大の蜂で地元では「ドンバチ」と呼んでいる)の巣が有り、此の季節でも蜂は攻撃してくる、伐採した樹木を引きずり出すとき、蜂の入り口部分を壊してしまったため、何十匹もの蜂が周囲に飛び出し、伐採作業を中断せざるを得なかった。
4時過ぎには全ての伐採作業は終了、今迄に無いほど時間が掛かったが要望の樹木伐採は全て完了した。
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# by kwsan | 2016-11-06 21:31 | その他 | Comments(0)
富雄川2(宮方地区)

1.宮方地区
 宮方地区は東に鹿畑、西に北田原、南に芝、北に久保の各地区に挟まれた複雑な谷の少ない丘陵地域である。自治構成は、尾谷川を挟んで北側を北垣内、南側を南垣内と呼ばれ、二つの垣内からなっており、近年北垣内を2地区、南垣内を2地区に分け地区毎に評議員が選出されている、現在の戸数は約80戸である。

 歴史上「宮形(宮方)」の文字が文献に現れるのは「興福寺雑役免帳」(延久2年1070)と言われているが、宮方は、古代地名で、「ミヤガタ」は「ミアガタ」の変音で「条」「坪」等の地名が見当たらないことから条里制村落ではなく「大化の改新」以前には既に集落が存在したと考えられている(高山地名考より)。又一説には県(アガタ)「皇室の料地」の一部とする説や「御矢方」として矢作り部に起因する地名という説もあるが定かではない。又「宮形」はお宮の屋形があった場所という意味にも取れる。

 高山地区には「鳥」の付く地名が多く見受けられ、宮方もそれにもれず「とや(鳥屋)」と言う地名が残っている。そこには鷹を飼育する小屋があったのではないだろうか。そのことから何時とはなく「とや(鳥屋)」と呼ぶようになったと私考する。


2.宮方地区の富雄川
 宮方地区の西寄りを流れる富雄川は東側に田畑が続き、西側には市道7号線が平行している、途中に砂防堰(地元では「どんど」と呼んでいる)が、西山からの流れと合流する付近、尾谷川との合流付近の2ヶ所に造られている。砂防堰の影響で流れは緩やかである。宮方橋付近から少し東へ曲がって市道7号線とは離れ芝地区へ流れる。
 
 天保絵図に、宮方地区から富雄川への流れは2ヶ所が記載されている。その一つに西山の谷(富雄川の西側にあるので西山と呼ばれているのであろうか?)からの流れがある、その流れを遡って行くと、一面棚田が続く場所(昔は谷であったろうと思われる)に出る。前方の頂きに関西電力の変電所が見え、変電所の斜面を縦断して南北に道路が通り、それ以上は進めない、昔はこの付近に流れの源があったのだろう、道路より下へ続く斜面には棚田が広がる、その中に小さな清水の流れが富雄川に合流している。流れは見つけにくいが、この流れは宮方地区と久保地区の境界にもなっている。

 もう一つの流れを地元では尾谷川(オダンガワ)と呼んでいるが、水源ははっきりしない。現在、尾谷、切り池、二の谷、くまが谷、等の谷からの流れが、宮方地区内で合流し一筋の流れとなって富雄川に流れ込んでいる。雨が降ると、水量が多くなるのだろうか、富雄川との合流付近では、川幅広くコンクリート造りである。天保絵図ではこの川に沿うて道があり、途中から北へ延び「ミヤガタ神社(モリサン)」の周辺を通り久保橋に至る。


3.橋
 現在、宮方地区の橋は、宮方バス停前の橋、元北消防署前の橋、の2ヶ所である。


 現在、宮方に通じる主道の橋は、宮方バス停(奈良交通)前の橋で、道標が立っており「みやかたはし」の銘がある、裏面に「昭和・・」の文字が見えるが、それ以外の文字はガードレールに隠れ確認出来ない。生駒市誌Ⅴには戦後架けられたと記載されている。地元の人に依ると、現在の高山大橋(国道163)付近にあった橋を宮方に移動したとも聞く。また、此の橋は地元の村会議員をしていた人が戦後寄附したという話も聞く。
現在の橋が架けられる前は川面近くに2枚の板を並べた状態であったと地元で聞く。


 天保絵図の「小字久保」地区(現在は宮方地区と思われる?)付近に架けられている橋が、大和国町村誌集では「久保橋(現在地元では西山橋と呼ばれている)」となっている。又明治時代には「宮方橋」と呼んでいたことが古文書に見える。この橋は久保地区と宮方地区の境界で、現在の宮方橋より北に位置し、元北消防署前にある。


 私見であるが、江戸時代、この橋を渡らないと対岸に行けなかった事から、「ミヤガタ神社(モリサン)」への参道で在ったとも考えられる、年代は定かでないが、二百数十年前には、既に存在していたと考えられる。
 旧生駒北中学校西にあった「安養寺」への参道として使用されたことも窺える。

 現在の宮方橋が出来る迄、高山の多くの人達が、大いにこの橋を渡り賑やかであった事と思う、現在、久保橋は、静かになり、賑やかだった昔を事を思い出しているのかもしれない。


4.ミヤガタ神社
  久保橋の東の山手に登ると、久保地区との境界近くに「ミヤガタ神社」が鎮座している。「ミヤガタ神社」を地元では「モリサン(杜山神社)」と呼んでいる。「モリサン」の創建や由来の伝承は幾つかあるが、古文書としての文献はなく詳しいことは判らない。祀られているご神体は、不詳であるが「森神」信仰と考えられる。

 山崎清吉氏は「高山地名考」で「宇佐見から遠路はるばると御入京の八幡神は、途次、高山で暫し御駐輦になり、御駐輦の御用に供した頓宮(便殿)は即ち高山八幡宮の創祀発生です。斯して、それまでの鎮守ミヤガタ神社は、主座を八幡宮に譲ることになる。」と書いている。
地元では、高山八幡宮創建以前「高山」の中心にあって「高山」の氏神様であったと、伝承されている。


 境内入口の鳥居には、昭和の終わり頃、地元の方が奉納されたのであろう個人の名が見える、灯籠の正面右には「宮県」左の灯籠には「大神」と刻まれ、裏面には昭和43年に奉納された地元老人クラブの名前が見える、境内には「西国33ヶ所順礼碑」があり「種子 奉納西国33ヶ所順礼 正月18日」の銘がある、種子は十一面観音と思われる、江戸期にモリサンに奉納されたものと考えられる。
 隣には舟型地蔵尊も祀られ、地蔵尊の首付近から破損したのであろうか継ぎ目が痛々しい、この損壊は明治の廃仏毀釈によるものであろう。


 祭りは「百灯明」と呼ばれ、神職に関係なく地元民で行われ、9月23日の夕刻から始まる。準備は自治会三役と当日の当番等によって準備され、参拝者が集まると、自治会長によって道師が決められる、道師が決ると般若心経を10回唱和する、回数を間違わないように道師の前に白い石が10個置かれ、唱和終了毎に石を移動させ回数を確認し、10回唱和すると直会に移る。
 昭和44年に新調された、直会に使用する道具入れの箱の蓋には「森講什物 宮方区」とある。


 12月15日に宮方地区公民館で自治会の総会が開かれ、終了後「森講」の総会が開かれる。そこで次年度の神社の当番2名が決められる、当番は1名宛半年ごとに神社の奉仕に当たる。ただし「ブク(注)」のかかった家は当番が決められる頃には席を立つ習わしになっている。
 「もりさん」の管理は地元の自治会が行い、毎月1日と15日には自治会役員が清掃している。老人会も2ヶ月に1度清掃していると聞く。


 私見であるが「モリサン」は「杜山神社」の文字で表されている通り神社で祝詞をあげるものと思われるが、般若心経を唱えたり、「ブク」という言葉があることから「モリサン」は神仏習合と考えられる。また、山崎清吉氏よると「モリサン」は高山八幡宮より古く、地元の神社であったと「高山地名考」にと書いている、このことから千数百年前には既に祭られており、「高山地方」の起源は宮方周辺から始まったと考えてもおかしくはない。


5.墓地
 宮方には裏山墓地と上墓地がある、これらは人家の近くにあり公共の墓地ではなく、個人か、数軒の共同墓地である。内容についての説明は控える。


 「注」 ブク(「仏供」と書く)とは仏に供える物、特に米飯を意味する、又神に供える食べ物を神饌と言う。
此所でのブクの意味は「喪」の期間中の家と思われる。


参考文献
高山地名考(山崎清吉著)、大和国町村誌集、
高山文化研究会資料 天保14年絵図(天保絵図)、
祖霊と聖霊の祭場(高田照世著)、奈良県の地名辞典、
続 ふるさと生駒大和の地政と私(藤本寅雄著)、
生駒市文化財調査報告書第20集(生駒市教育委員会)、
生駒市誌 Ⅴ(生駒市教育委員会)、
生駒の祭礼(生駒市教育委員会)、
生駒市石造遺物調査報告書(生駒市教育委員会)、
仏壇のはなし(谷口幸璽著)、世界百科事典及び各種百科辞典、
新高山88ヶ所案内記(明治34年作成)。

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            ミヤガタ神社(杜山神社)

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       みやかたばし(道標には昭和の文字が見える)

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久保橋(昔は宮方橋と今は西山橋と呼ばれている)

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            尾谷川(オダン川と呼ばれている)
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              富雄川のさ砂防堰


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# by kwsan | 2016-10-14 21:12 | 歴史 | Comments(0)