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カテゴリ:歴史( 27 )
瓦の刻印の調査
瓦の刻印 第1回
最近は色々な瓦が造られ、メーカー名、屋号が刻印として瓦に表
示され、ロットNo 等も見受けられる。
色々な刻印を表示する事が困難であった時代、文字から製造者、
地域などが判るよう作られ、鬼瓦等はへらで必要事項が誌された。
高山地区にも数件の瓦屋が存在したと生駒市誌Ⅲに紹介されてい
る。生産された瓦は主に地元で消費され、他の地域で使用されるこ
とは少なかった、地元で造れない瓦などは他の地区より購入したと
考えられる。

図 1
刻印(銘) 高 森岡 安早
瓦の種類     丸瓦 平瓦、軒瓦、桟瓦
確認場所     民家、本願寺、廃寺大雄寺(観音堂)
交野市民家(交野市文化財だより13号による)
刻印の意味  「高」は高山地区を表す。
 「森岡」は生産者を表す。
 「安早」は安価で納期が早いと言う意味だろう?
生産者 森岡家は、高山地区で瓦屋を営んでいたことは生
駒市誌Ⅲに紹介されているが、活躍したのは明治
以降である。末柄は戦後大阪市に移転したと聞く。

           図 1
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図 2
刻印(銘) 高瓦房
瓦の種類    丸瓦、 棟瓦、軒瓦、冠瓦
確認場所    民家、 廃寺大雄寺
刻印の意味 「高」は高山地区を表す。
「瓦」は瓦屋を表す。
       「房」は生産者を表す。
生産者     明治初期から戦後まで活躍した瓦屋で「房吉」と
       いう、戦後は交野市の有山瓦屋の出張所を営んで
       いた。(新聞広告参照)地元では「どびや」とい
       う屋号で呼ばれ、末柄は平成の時代奈良市内に移
       転したと聞く。屋号「どびや」が文献に現れるの
       は、明治10年頃で「房吉」が文献に現れるのは、
       明治20年頃である。

            図 2
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図 3       
刻印(銘)   高瓦仁
瓦の種類   桟瓦、棟瓦(京箱タイプ)、丸瓦、ゴンロク桟瓦
確認場所   民家、廃寺大雄寺
刻印の意味  「高」は高山地区を表す。
       「瓦」は瓦屋を表す。
       「仁」は生産者を表す。
        生産者生産者名は判らないが、瓦の使用されている建造
       物から明治時代の瓦屋であったことには間違いな
       い、刻印の種類は写真のように幾種類かあり、瓦
       の種類で使い分けていたのかも知れない。
           
             図 3
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図 4
刻印(銘)   高山 瓦法橋
瓦の種類   桟瓦、軒瓦
確認場所   民家
刻印の意味  「高山」は高山地区を表す。
       「瓦」は瓦屋を表す。
       「法橋」は生産者の屋号を表す。
生産者    生産者「三夫」の先祖が僧侶であったところから
      「法橋」の屋号が付いたと云われている。瓦屋と
      しての実績は文献には現れないことから、活躍し
      た時代は、明治の一時期であったのではないかと
      考えられる。末柄は今も健在である。

            図 4
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図 5
刻印(銘)    高山瓦為
瓦の種類    軒瓦
確認場所    民家(井戸館)
刻印の意味   「高山」は高山地区を表す。
        「瓦」は瓦屋を表す。
        「為」は生産者を表す。
生産者     万延2年(1861)の文献に「中村為藏」と
        出て来るのが初見で、文久2年(1863)の文
        献には「瓦や為藏」と誌されていることから推測
        すると、久保地区中村垣内に生産地が存在したの
        ではないだろうか。瓦屋としての実績はあまり知
        られていない。

             図 5
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図 6
刻印(銘)    大 和刕高山 中井瓦商 ほ
         大 和刕高山 中井瓦商
瓦の種類     丸瓦、軒瓦
確認場所    法楽寺(土塀の屋根瓦及び横門の屋根瓦)
刻印の意味   「大」「ほ」は何らかの記号ではないか?
        「和刕高山」高山地区を表す。明治以前は「和刕
        添下郡高山」と呼ばれていた。(刕=州)
        「中井瓦商」生産者又は販売者を表す。
        生産者「中井瓦商」については判らない。

             図 6
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図 7
刻印(銘)    大慶
        第5回内国 勧業博覧会
        瓦商 和刕高山 有山房吉
瓦の種類    棟瓦(京箱タイプ)
確認場所    法楽寺(元御堂の棟瓦)
刻印の意味   第五回内国勧業博覧会
        は明治36年(1903)大
        阪市天王寺今宮で3月1
        日~7月31日迄開催さ
        れた。博覧会に出品され
        たと同等の瓦である。
       (参考国立国会図書館
        文書、生駒市誌Ⅲ)
生産者     「有山房吉」

         図 7
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図 8
刻印(銘)    ○谷 瓦辰
瓦の種類    丸瓦
確認場所    法楽寺(御堂跡)
刻印の意味   「○谷」は生産地を表す。
        「瓦」は瓦屋を表す。
        「辰」は生産者を表す。
生産者      生産地は「○谷」の部分が不鮮明であるが推測では「鳥」
        に見える、「鳥」とすれば「鳥谷」となり、高山
        に近い場所では「精華町東畑鳥谷」が該当する。
        名前については「辰○」ではないだろうか。
        東畑地区にも瓦屋があったことは伝承されている
        が詳しいことは判らない。

           図 8
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図 9
刻印(銘)   穂瓦兵
瓦の種類   桟瓦
確認場所   本願寺(天満宮)
刻印の意味  「穂」は生産地を表す。
       「瓦」は瓦屋を表す。
       「兵」は生産者を表す。
生産者    「穂」で始まる高山に近い地域は「枚方市穂谷」
       に該当する。「兵」について、詳しいことは判ら
       ない。

             図 9
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図 10
刻印(銘)   打瓦吉
瓦の種類    軒瓦(葺き替えのため外された瓦)
確認場所    墓地(地蔵尊堂)
刻印の意味  「打」は生産地を表す。
       「瓦」は瓦屋を表す。
       「吉」は生産者を表す。
生産者    「打」で始まる高山に近い地域は「京田辺市打田」
       が該当する、名前の「吉」については判らない。

           図 10
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図 11
刻印(銘)   中瓦佐
瓦の種類   特殊丸瓦(葺き替えのため外された瓦)
確認場所    墓地(地蔵尊堂)
刻印の意味  「中」は生産地を表す。
       「瓦」は瓦屋を表す。
       「佐」は生産者を表す。
        生産者生産地及び生産者は判らない。

          図 11
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図 12
刻印(銘)    私瓦八
瓦の種類    鳥衾瓦、軒瓦、丸瓦、平瓦(ゴンロク)
確認場所    法楽寺(元御堂屋根瓦、横門屋根瓦)、本願寺
刻印の意味   「私」は交野市私部を表す。
        「瓦」は瓦屋を表す。
        「八」は生産者を表す。
        生産者生産者は交野市私部の「大矢八兵衛」江戸中期に
        活躍した瓦師で、法楽寺の瓦に多く使用さている
        のが見受けられる。

             図 12
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図 13
刻印(銘)    瓦師 河刕私部住人 大矢八兵衛
        文化五年 戊辰二月中旬造之
瓦の種類    鬼瓦(数珠掛鬼面タイプ)
確認場所    法楽寺御堂(御堂移動時に取り外された鬼瓦)
刻印の意味   文化5年に私部の瓦師大矢八兵衛が造ったと鬼瓦
        にへら書きされている。
生産者     瓦師大矢八兵衛は江戸中期、交野市私部で活躍し
        た瓦師で、小田原城の鬼瓦、寝屋川の法安寺の獅
        子口瓦は八兵衛の作である、交野市の寺村、森村、
        私部村、倉治村、郡津村等にも多く使用されてい
        た事実が確認されている。
         (参考交野市文化財だより13号)

             図 13
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図 14
刻印(銘)    ○波  ○天 天○○
瓦の種類     鬼瓦
確認場所    本願寺(使われていた建物は判らない)
刻印の意味   不明
生産者     不明 
        「○」の部分は風に晒されたのか確認出来ない 


           図 14
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by kwsan | 2017-10-22 11:47 | 歴史 | Comments(0)
生駒市高山町 廃寺大雄寺 供養

 大北地区、井上垣内の廃寺大雄寺(大庵寺とも呼ばれている)で8月20日(日曜日)、毎年恒例の供養が行われた。廃寺大雄寺は、大北自治会の管理となっている、境内には児童公園の案内版もみえる。 境内は児童公園となっているので、草刈は子供会で数日前に行なわれたと、自治会長におしてもらった。
 9時前大北自治会の関係者が三々五々集まり9時には全員集合。お堂は古く、戸は壊れいるのか、お堂全体が封印された状態にある、(以前は扉が開放され、中に供物が置かれて、供養が行われた)、お堂の階段最上段に供物が置かれ、階段下の両脇に供花が1個宛と、線香が立てられ、蝋燭の灯が風に揺れている、近づくと線香の香りが漂う。境内の石仏にも供花が立てられ、蝋燭と線香が供えられ、線香の煙が漂ってくる。

 暫くして法楽寺住職が来寺、読経の前に必要な仏具を準備、自治会三役は住職の後に、役員はその後に半円に集まり、住職の読経を見守る。
読経が終わると、自治会長を先頭に参加者全員、焼香が行われた。その後、観音様、馬頭観音様の2個所で般若心経が唱えられ、供養は終了した。かんかん照りの中でのおつとめ、自治会長、役員の皆様お疲れ様でした。

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「大雄寺」は何時頃から「大庵寺」と呼ばれたのだろうか、享保17年(1732)の井上文書に見られるのが初見で、本格的に「大庵寺」と呼ばれだしたのは明治以降と考えられる。
 大庵垣内にも、その昔、お寺があったと、地元では伝承されているが、詳細は不明。当時、高山を知行していた「堀田紀一定公」の戒名は「大安全切」となっている、私考であるが大庵垣内にも「大安寺」或いは「大庵寺」と云う名の寺があったのではないだろうか。
 同じく「堀田紀一仲公」の戒名は「大雄智箭」であり、「大雄」と寺の二字が見える、また、お稲荷さんの燈籠にも「一忠公」が見られることから、私見であるが、「一仲公」の大雄寺に対する貢献度が非常に大きかったことが窺える。


 一般的に、お寺の総代や役員を長期間に渡り勤めた場合や、お寺に多額の寄附をした場合等、戒名に「院」、以外に、お寺の文字が使われることが良くあります。

 
 廃寺大雄寺の本尊は、木像地蔵菩薩立像で、大きさは2尺5寸、台座を入れると5尺3寸(約160cm)、と寺の什物に、記載されてるところから、本尊は立派な仏像であったことが窺える、残念ながら昭和51年に盗難に遭遇、現在は行方不明である。台座には「文政5午歳正月吉日本尊前立臺」(1822)の銘があり、仏像はそれ以前に造られたことが窺える。
 明和5年の有井山文書に、「禅宗和州片岡村徳雲寺末寺大雄寺境内除地 東西15間、南北20間」(一反)と誌されている、この事から広い境内であったことが判る。文献がないので定かではないが、広い境内には建造物が多くあったのではないだろうか。

 住職がお見えになるまでに屋根瓦の銘を確認したところ、観音様の祠の瓦には「高山 森岡 安早」と「高瓦房」の銘が見つかった。前者の屋号は「森岡」で後者は「どびや」である、いずれも明治頃に瓦を焼いていたことが、生駒市誌に紹介されている。現在、両家の末柄は地元には住んでいないので詳細はわからない、瓦の銘から、祠は明治以降に建立されたことが窺える。
 災害で崩壊した庫裡に、使われていたと思われる棟瓦にも「高瓦房」の銘が見つかった。庫裡は明治以降に屋根瓦に修覆されたか、新しく建立されたかのどちらかであると考えられるが、棟瓦の形状をみると、京箱形式を使用しているので庫裡は太い棟木ではなかった考えられる、とすれば葛屋根を瓦に修復したと私考する。


 最後に、行事の内容を撮らせていただくよう、当地区の自治会長にお願いしたところ、快くお許しを頂きました。心より御礼申し上げます。


参考文献 
  生駒市誌、有井山家文書、井上家文書、寛政重脩諸家譜、向露寺文書


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by kwsan | 2017-08-28 20:41 | 歴史 | Comments(0)
黒添池、安明寺池、城の茶屋方面の散策

 平成29年6月16日、快晴に恵まれ、最高の散策日になった。
参加者は12名、出発は安明寺池からである。池の歴史については文献が乏しく戦後頃の状態の話しで終わる。
 水量は今よりも多く、水深については随分と深かった記憶がある、水は底まで澄み切って神秘に感じた。今は昔の面影全くない。
池と平行した道は広く軽四が通っているのか轍が残る、この道を奥に進むと獅子が丘住宅地に行くことが出来、そこから奥へ進むと大阪府の府民の森にから「カイガケ道」に繫がる。江戸時代には多くの人が通ったと古文書などに残る。

 池の名に寺の名が付いているのは、この付近に安明寺というお寺が存在したためであろう。明和5年の文書には、安明寺の明示があるが、どうもこの年代には安明寺跡を示しているのだろう、現在まで安明寺に関する文書は発見されていない。
 池の周辺は自然が残り珍しい昆虫や植物が見る事が出来る。
昆虫ではムカシヤンマ、大きさはオニヤンマぐらいで古代から進化していない、飛翔は幼稚で止まると羽根は閉じず、獲物を飛翔中に捕獲する現場に遭遇した事がある、成虫になるまで3年ほどかかる。

 植物では「ギンラン」「キンラン」などの植物も見られる、これらの植物は菌根菌を栄養源として生育している多年草、これらはいずれも絶滅危惧種に指定されている。

 古道、大谷道には「墓ノ谷」なる小字がある、現在は工場が数社営業している、江戸時代には数件の人家があったことが古文書から判明しているが、その末柄については不明である。現在、大谷道の一部は高山を通り抜ける道路があり、車の往来が切れ間のないほど通る。

 黒添池の樋は今はハンドル操作で開閉するが、昔は直径10cm程の棒が抜き差しすることにより操作していた。
 樋から流失する水は2方向に分離され水田に利用されている。
今は大きな問題とならないが、水田の多かった江戸時代には、左右同量の水量に分けられる仕組みが施されていた。
 水路の中央付近に三角形の島を作り頂点に向かって水を流すと二方向に水は流れる。三角形の底辺の角度を何度にするかは水路の幅との関係もあるが、正三角形が多いようである。こんな方法で水のトラブルを防いでいた、先人の苦労が偲ばれる


林の中を10分ほど進と棚田の田園に出る、此所が「城の茶屋」という小字である。昔この付近を通る旅人が休憩する茶屋があったと地元では言っている、「城の茶屋」の小字が文献に現れるのは文化文政の時代でそんなに古くはない。


 城の茶屋から東に広がる小字「美ノ渕」に「ギオマン」という地名が残っている。此所には吟右衛門なる人物が住んでいたと伝承され、先祖は京田辺から此所に作男にやって来てそのまま住み着いたとも言われている、その末柄は地元にいないが今も健在で生駒市内に住んでいる。

 此所を通り抜け急な坂道を下ると突き当たりに向露寺の墓地に出る。向露寺は元禄2年2月に達磨寺の珠岩和尚が開山、目的は本願寺山墓、円楽寺山墓を一ヶ所に集め、火葬を土葬に改葬、が目的と言われている。お堂は元禄8年傍示、向露寺原から移転と伝えられている。
 墓地の一部は「太田勘右衛門」なる人物が寄附したと言われており此所に眠る、末柄は絶えたと言われ不明。
 墓地広場には「迎え地蔵(阿弥陀如来)があり銘は台座に「宝暦七丁丑天 六月建立 之施主小森畑 有山道受」とある、棺台、前机などがあるが今は使われていない。
 他に6地蔵尊、石仏地蔵尊なども見られる、本堂横には延命観音が祀られている。昭和の終わり頃、黒添池北の酒池岩場に祀られていたのを此所に移転した。新しい観音さんである。


 暫く南進すると小字「大廣」入口の前を通り本願寺に着く。此所は高台になっており遠くまで見渡せるが南や東は大木が茂り見えない。小字「大廣」は奥の方まで見渡せる。この入口には記念碑があり昭和9年に道路拡張工事したと銘がある。小字「大廣」の奥には「大八丁池」があり、満水となると水面が青々とその深さが知れる。その奥に戦後、滝行場が造られた、西光寺住職が主体と成り月1回滝行を行ったと言われている、滝行については詳しく知る人は亡くなり、詳細はわからないが行場の跡は今も残る。

 本願寺の由緒は不詳であるが、本尊は石仏地蔵座像で銘から1505年の作と判明している。自然石六字名号碑(1610)、六字名号板碑(1632)、自然石 富士講碑(1736)、十三仏、庚申碑などが境内に列ぶ。お堂裏側には本願寺住職の石碑が7基立っている。境内には天神社の祠が有り、安永の時代に造られたと文書(明治5年)に記されており、本願寺什物(1797)には、お堂と菅原道真公の像が記載されている。

 富雄川(九頭神川)を北進して九頭神公民館に着く、此所に「愛宕山」「九頭神」の銘がある石燈籠がある、この燈籠は元々その場から50m程先に三叉路が有りその北東角にあったが道路工事のため此所に移動した。明治の初め頃には迄電気などはなかった、その頃は川筋の集落の住人が毎日交替で油を注ぎ火を点したと「有源」に記載されている。

この川筋には3ヶ所の水車が昭和43年頃まで動いていた。しかし米搗きなどの機械が発達して、川下から順番に使用されなくなり消えていった。

 ここから城の茶屋橋を渡り元来た黒添池に戻り帰宅、歩数にして1万歩ほど、散策時間は休憩時間が長いので2時間半費やした、休憩せず歩いて70分のコースである。


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by kwsan | 2017-06-15 21:39 | 歴史 | Comments(0)
大北地区 稲荷大明神のお祓い

 先日の3月19日、大北自治会主催の稲荷大明神のお祓いが行われた。
午後2時、自治会関係者及び高山八幡宮宮司が先頭で、その後に、幟(「正一位稲荷大明神」と読める)を持って子供会関係者と子供達が列を作り稲荷山の稲荷大明神に向かう。総勢50~60名、大雄寺(大庵寺・元大北区会所)の前を登り、山道(昔は田畑が作られていたであろう畦道)に続く里道を通って稲荷山に着く。稲荷大明神には赤い鳥居が3基、二の鳥居の次には石灯籠が両側に建つ、三の鳥居の向こうに社があり沢山の御供えが見える、社の奥くには、奉納されたと思われる狐が、沢山列んでいるが、祭神は見当たらない、社の前に自治会関係者、子供会の順に並びお祓いを待つ。
 宮司の祝詞とお祓いの儀式が行われた後、各関係者の玉串の奉納があり、行事は1時間ほどで終了、その後自治会館で関係者による直会が行われた

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      宮司を先頭に自治会関係者、子供会関係者、子供達が続く


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            大雄寺の横を行列は登って行く

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                 御供え


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        幟には「正一位稲荷大明神」と書かれている

 稲荷大明神の由緒・祭神については不詳であるが、元々大雄寺境内にあったと伝承されているが定かではない、明治維新の頃、大雄寺及び稲荷大明神の管理が出来なくなり、それら全てが地元の自治会に寄附された、と元庄屋の古文書に誌されている。ただし、何時頃から今日(こんにち)の行事が行われたかは不詳である。

 石燈籠正面には「石燈籠両基」、裏面に「篠原精八郎」、側面に「堀田氏一忠敬白」と読める、また、受け(火袋の台)の正面には家紋の「堀田木瓜」(堀田氏の家紋)が見える、建立年号は確認出来ない、片側の石燈籠の宝珠・請花の部分が損失したのか一片の石が置かれている、一対の石燈籠は「堀田氏一忠」の建立であろう。
 堀田家代々の戒名は向露寺文書に見られるが「一忠」の戒名はない、「篠原精八郎」なる人物は堀田氏の家臣であったことが知られている、これらの事を考えると、石燈籠・鳥居は江戸中期に建立されたと考えられる。

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           石灯籠 「石灯籠両基」読める

 
 鳥居は木造で赤く塗装されている、額束には「稲荷大明神」と誌され、現在3基が見られる、周辺には鳥居の基礎跡も見つかっており、数基建っていたと推測できる。地元の話しでは5基と伝承されているので、地元の話しと合致する。

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      鳥居は3基見える、鳥居には「稲荷大明神」と誌されている


 廃寺大雄寺は「大庵寺」とも言われ、「開山は貞享4丁卯年11月(1687)和州片岡村達磨寺の珠岩和尚」が行ったと伝承され、明和5年の古文書には東西15間、南北20間の御除地があったと誌されている。又、法楽寺文書によると享保16年頃、井上垣内
に陣屋があったとも誌されているが大庵寺境内かどうかは定かではない。
 祭祀位牌には「臨済正傳 第35世當寺開山珠岩寳老和尚覚位」とあり、裏面に享保19年(1734)8月26日と読める、石碑には「當寺開山珠岩宝老和尚 塔之」の銘がある。又、珠岩和尚は向露寺墓地を元禄2年(1689)に開基した僧侶でも有り、向露寺文書には「開山向蓮社西譽善宗大徳」と誌されている。
此所には堀田紀一知公(嘉永5年1852)の位牌も祀られており地元では堀田家の菩提寺とも言われている。

現在、廃寺大雄寺及び境内及び稲荷大明神は大北地区自治会に依って管理されている。


参考文献
 法楽寺文書、向露寺文書、有井山家文書、井上家文書


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by kwsan | 2017-03-28 20:56 | 歴史 | Comments(4)
本願寺境内の天神社

本願寺天神社

つまらない話だが、前回「寺請け証文」の分析結果投稿後、不思議な夢を見た。
 手を捕まれている感触はないのに、姿の見えない何者かに左手を強く引っ張られる、もの凄く強い力である、振り払おうとするが払えない、ずるずると引きずられる、その怖さにお経を唱えようとするが声が出ない。あまりの怖さに目が覚めた。
 地元の古史跡の投稿をすると何かの事象が発生する、昨年、信号待ちで、ブレーキを踏んでる足が突然動かなくなり、一瞬戸惑った、2~3秒後には正常に戻ったが、これが逆だったらと思うと恐ろしい、それも同場所で二度も。

つまらない話はさておいて、子供の頃から、本願寺に社があることが知っていた、祭神については、知らなかったが、現役を終え、自治会の役員を仰せつかった折、初めて中を見ることが出来た。その日は7月25日の天神祭りの夕刻である、この日は自治会の3役揃ってお参りをする、此の時、初めて祀られている木像の姿を拝見した、大きさは20cm程度の大きさで座像、何だか古い仏像に感じた、菅原道真公と知人は教えてくれた。当時の日誌を見ると、「自治会長が天神社の内部を掃除、塩、洗い米、水、野菜(キュウリ、なす、トマト、等)を準備、ローソクを灯し御供えをする。お参りは6時頃3役で行い、供物の野菜は自治会長以外で分けて持ち帰る」、となっていた。

それから数年後、本願寺に付いて調査する機会を得た。その中で天神社に付いて調べていく中、元庄屋の古文書に、「天神社上棟 安永」(1772~1797)の文字が見え、法楽寺文書の本願寺什物に「願主天神社」の項目があり、「天神像 一体」及び「神鏡 一面」等の記載がある、つまり今ある天神像と考えられ、現在、神鏡は二面はあるが、これは後に追加されたのだろう、手水鉢については見当たらないが、手水鉢正面に「奉納 天満宮」、側面に「庄田村 若中 文政11子天(1828)」と読める。同時代に本堂も大修理が行われている事が、位牌や元庄屋の古文書から判明した。


これらを総合すると、天神社は安永の時代に建立され、神鏡と木像の天神像が、祀られたと考えられる、建立の目的は不明であるが、願主天神社とあることから、本願寺の什物であったことには間違いない、その後、理由は不明だが、文政期頃に庄田村の天満宮(社には天満宮と書いた板が掛けられている)となったのではないだろうか。


       天満社(現在は天満宮となっている)
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扉の裏面に描かれた絵、絵は左右同じ絵である。                    何を意味するのかは判らないが江戸期のものであろう。

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by kwsan | 2017-02-12 21:25 | 歴史 | Comments(0)
富雄川3(芝)

1.富雄川(芝地区)
 芝地区を流れる富雄川は、国道163号線拡張工事のため、昔の面影はなく、農協前の橋付近のみ面影が残り、下流は川底が深く広くコンクリート化された両岸が続く。砂防堰は農協前と芝橋の下流数十mの所の2ヶ所に設けられ、流れは緩やかである。西光寺橋付近までの工事は早く終わったのか、川底には雑草が繁茂し、川辺には、鴨やシギなどが見られる。現在(平成28年10月)は高山大橋から富雄方面まで富雄川両岸道路は2車線となり西側(高山方面)は上り、東側(富雄方面)は下りの一方通行となっている。

 富雄川に流れ込む流れは、天保絵図に稲葉(現在は稲葉と奈良口が合併して稲奈と呼ばている)の頂からの流れが一ヶ所みられる、流れは現在も同じである。稲奈地区内の流れは途中から暗渠になっており、富雄川に接続する部分は、対岸から確認出来る。元々此の地区は、深い谷が少なく、丘のような地形が続き、湧水の流れが少ない地形であったと考えられる。

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    天保絵図に描かれている稲葉の流れ、富雄川の接続用の暗渠の出口

2.橋
 現在の橋は、農協前の橋(名前知らず)、奈良口橋、高山大橋、芝橋、西光寺橋、西向橋、鵄の橋、が架けられている。
天保絵図には2つの橋が描かれており、大和国町村誌集には「芝橋」「滝のはな橋」が記載されている。奈良口橋、高山大橋、西光寺橋、鵄の橋、は富雄川護岸工事と共に新しく架けられた橋である。

 平成26年の災害で農協前の橋は、流失したが、その後、修復された。この橋は元々農道だと思われる。天保絵図ではその付近まで道があるが、橋は描かれていない、大和国町村誌集にも見当たらない事から川面に掛かる丸太の橋だったとも考えられる。

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              農協前の橋(名前知らず)

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             新しくなった芝橋

 芝橋は、現在の芝橋が出来るまでは高山大橋近くの場所にあって、地元の人の話では現在の宮方橋に移転したとも聞くが定かではない。現在の宮方橋が掛かっている場所は、戦後、川面の近くに二枚の板が渡された簡単な橋だったと言われている。

 西向橋は天保の絵図に描かれているが、絵図には名前は記載されていない、江戸期、西向橋は芝から白谷、南田原へ抜ける主要道路であったとことが天保絵図から読み取れる。元々この橋は本道路より下に架かっており川面の近くにあった。護岸工事と供に道路と平行に架けられた。
「滝のはな橋」については不詳。

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              新しくなった西向橋

3.芝地区
 芝地区は高山の一番南に位置して、南に上町、西に南・北田原町、東に鹿畑町、北は宮方地区に隣接する。「稲葉」の名が見られるのは興福寺雑役免帳(延久2年 1070)で、「芝村」は明暦1年(1655)の法楽寺文書(高帳)に見える。
 芝地区も宮方地区と同じように「坪」、「里」などの地名が見当たらない事からで条里制村落でなく大化の改新以前に既に村落は存在したと考えられる。
 現在の芝地区は、山田、稲奈、河原、西向、若葉(新しく出来た地区)の自治地区で自治会が構成されている。

 芝地区は江戸期には、郡山街道(郡山-高山芝―傍示)が南北に通り、東に一条街道から平城に至る、また一条街道から伊賀街道にもつながり伊賀上野に至る、西に向かえば北田原を通り清滝街道から四条畷(明治頃は甲司村と言った)に至る、また、西向橋を渡れば南田原をへて古堤街道、善根街道などに接続、東大阪、大東市に繋がった。
以上のように各方面に繋がる主道路の中間地点であったことは、天保絵図からも判る。

 昭和の初め頃まで、芝橋付近には色んな商店や旅籠が並び高山地区の歓楽街の一つでもあった。大軌鉄道(現在の近畿日本鉄道)が出来た頃から、地元古老から聞いた話であるが、芝には馬車タクシーがあって、タクシ-は芝から富雄駅まで運用された、馬小屋と馬車置き場が、理髪店があった付近にあったと聞く。その後、馬車から自動車に代わったが、どんな人物が利用したのだろう。又明治の頃、芝在住の医者の往診(高船、打田、等の遠方)は馬で行われていたと生駒市誌に紹介されている。

4.天満神社
 稲奈垣内の森に、南向きの52段の石段があり、石段を登りきると右側に高さ50cm程の石柱に「発起奈良口組合 大正5年」の銘がある。
「52」となる数字にしたのは何故か、52段と言えば、奈良さるわ池に繋がる石段と同じ段数である、大乗仏教において仏道修行を行う過程で、52の階梯があると言われている、その数と等しく最上階位が妙覚である。こんな事を考えて造られたとは思えないが。

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天神さんの石柱(発起奈良口組合と読める)

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      天神さん(階段を上がると鳥居・灯籠・神殿が見える)

 鳥居をくぐると境内、神聖な場所に入る、左側に手水鉢が置かれ、すぐ横に灯籠があり、中央に社殿が鎮座し、ご神体の菅原道真公が祀られている、社殿には「天満社」の札が掲げられ、灯籠には「金毘羅大権現(注1)文化11年(1814)」と、鳥居には「明治11年10月(1878)」と刻まれている。苔むした手水鉢には「水奉」の文字が見えるが、これ以外、苔に隠れ確認出来ない。
 社殿東側後方の木々が茂った部分に、最近建設されただろうか、携帯電話のアンテナが、空高く聳え、天満神社の目印となっている。

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         天神さんの灯籠(金毘羅大権現と読める)

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              携帯電話のアンテナ

 由緒には「本社創建は文政元年2月堂山民有地に観修神守は無之信徒交番を以て祭典を行い来たり」伝々、要約すると、この神社の創建は文政元年(1818)2月に小字堂山(注2)の民有地に分祀した、神主は置かず信徒交代で祭典を行ってきた。
 又一説では、この神社は元々法楽寺で祀られていたが、明治の神仏分離令の廃仏毀釈の影響を受けた際、この土地に移され、創祀されたと伝承されている。これについては資料がないので定かではない。由緒の通り境内は個人の所有地となっている。

 天神祭は稲奈垣内民で8月25日に行われる、当日、垣内の当番は境内の清掃と照明等の準備、S家(土地所有者)当主は、S家に集められた供物と神饌を御供えする。
 旧街道には天神祭りの提灯の灯りも目に付く、午後7時前になると、垣内民が三々五々境内に集まり、個々にお参りが行なわれ、お参りが終わると神殿の前に組頭、自治会長、S家当主、が並びその後に垣内民が続き、高山八幡宮宮司のお祓いが行われ、続いて玉串の奉納が行われ神事が始まる、神事が終わると、集会場に集まり直会が行われる。御供えは全て集会場に持ち寄り垣内民に分配される。

 注1 金毘羅大権現とは薬師如来の12神将の筆頭神、宮比羅大将のことでガンジス川に棲息する鰐を神格かした「クンビーラ(マカラ)」と言われている、水に縁があり海難、雨乞の守護を司る。
 灯籠には「金毘羅大権現」の銘があることから、明治の神仏分離令により、何処かで祭られていた、金比羅大権現が廃仏毀釈の影響を受け、不要となった灯籠が、ここに移転されたものではないか、又鳥居には「明治11年」の銘があることから之も何処かで使用されていたと私考する。
 注2 「堂山」という地名は、その昔、何らかのお堂が建てられていたので「堂山」と呼ばれる様になったと私考する。


5.稲葉の権現さん
 稲葉垣内の杜さんは垣内の入り口付近にあって、垣内民で祭祀され、由緒は不詳である。
 正面左の鳥居前に1m程の石柱が立っており、鳥居をくぐると右側にも1mあまりの石柱が立っている、その数m先には、御供えを置く石の台が置かれ、両脇に、石造りの花立、正面左の花立の後に火袋のある石柱が立っている、正面には以下の板碑が列ぶ。その奥は大きな木が聳え立ち、その根本付近にご神体が祀られていると教えられたが見つけられなかった、その向こうには民家の建物が見える。
左(北側)の空き地にはこぢんまりした社、灯籠、手水鉢、が見えるが、これらは個人の持ち物で権現様とは関係がない。右側(南側)には畑がある。

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      稲葉の権現さん、正面に板碑、西国33ヶ所礼拝碑が見える。

6.権現さんの板碑
○ 正面には3基の石造物が列びその後にお地蔵様が隠れている。
 お地蔵さんの年代や銘については不明。
○ 正面左には、室町時代と思われる板碑が祀られ、種子は、はっ きり判らないが「阿弥陀如来」ではないだろうか。
○「西国33ヶ所礼拝碑」には「種子 奉納西国33ヶ所 寛文○ 年8月18日 同行12人」の銘があり 種子は11面観音と思 われる。
○「西国33ヶ所礼拝碑」には「種子 奉納西国33ヶ所順礼 天保 8天 10月18日(1837)」の銘があり、種子は勢至菩薩 であろうか。
○ 鳥居には「天保10年亥9月吉日 施主 芝村中(1839)」 と銘がある。
○ 花立には「芝村中」の銘が見える。
 鳥居及び花立は「芝村中」とあることから同時期に建立されたと私考する。
 西国33ヶ所礼拝碑は元々此所に祀られていたものでなく何処からか持って来られたのではないだろうか、また鳥居や花立はそれらの石碑より後に建てられたものと私考する。

祭りは7月23日午後7時から行われ、直会は南側の空き地(現在は畑)で行われていたが集会場が出来た頃から集会場で行われるようになった。


7.しるし墓
 稲奈垣内の民家の裏山に無縁仏の一群があり、その中には江戸初期を思わす碑があるが、個人の所有と思われる。


8.西光寺
 山田垣内の山の中腹にあって、法楽寺末寺、真言宗新義派のお寺で御本尊は地蔵菩薩である。明治11年には小学校を設置された経緯もあり、歴史を伺わせる。西光寺が文献に見えるのは法楽寺文書の金剛界念誦私記(寛文元年 1661)である。
 明治に地元の旧家が作成した文書によると、宝暦9年(1759)の釣鐘(直径65cm)、安永2年(1773)の鰐口(直径27cm)が存在したと記されている。
 和州添下郡高山村差出帳(明和5年 1768)には東西15間/南北15間の除地があったと記載されている。
 西光寺は今から350年以前に創建され、面積は8畝以上の広さがあり釣鐘や鰐口があったことが判る。しかし、由緒は不詳である。

 お寺の入り口には、小さな地蔵屋形があり、その中に頭部欠損の道標地蔵が祀られている、「道標地蔵立像」には「右 いが  左 かたの」とあり、「道標地蔵」には「右 きづ いが  左 大坂」と読める。これらの地蔵尊は、芝橋のたもとに建てられていたものであろうか。
 東側の庭には33体の観音様が祀られ、本堂前には「自然石種子碑」がある、地元の人は馬頭観音と呼んでいる。
 此所は住居となっているため個人保護優先し写真は割愛する。

芝地区には上記以外にも墓所、石仏など、多く史跡が存在する。今後の調査課題とする。


参考文献
大和国町村誌集、祖霊と聖霊の祭場(高田照世著)、
高山文化研究会資料 天保14年絵図(天保絵図)、
北倭村誌、生駒の祭礼(生駒市教育委員会)、
生駒市石造文化財 生駒谷(生駒市教育委員会)、
生駒市文化財調査報告書第20集(生駒市教育委員会)、
生駒市石造遺物調査報告書(生駒市教育委員会)、
生駒市誌(生駒市教育委員会)、
日本大百科全書、各種辞典、高山地名考(山崎清吉著)、
和州添下郡高山村差出帳(明和5年 1768)、
高山村社堂建立修覆々中諸事年代記(明治5年 1872)、
生駒北小学校創立百10周年記念誌(生駒北小学校)。





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by kwsan | 2017-02-05 11:39 | 歴史 | Comments(0)
寺請け証文 5

5.「寺請け証文」の内容
 法楽寺に保存されている220余件の「寺請け証文」の内、120余件の内容が紹介されている、それを分析したのが図28である。



 図28における「寺請け証文」の内容は、縁談が全体の約60%を占める、次に多いのは養女・養子・その他と続く。
グラフから判ることは、全体の60%が女性の「寺請け証文」である、このことから此の時代は男性中心の時代であった事を顕著に表している。
その他は、縁談の破棄や送り戻し等である。
 縁談の中には母親同伴で娘が嫁入するとか、50代の母親が子供を連れて再婚するとかの、「寺請け証文」も見つかっている。此の時代、女性一人では生活できなかったのであろう。30才代や40才代の女性の縁談も数件ある、これらは再婚と見て良いのではないだろうか。



図29は、養子・養女となった子供達の年齢を示す。
緑が男子、茶色が女子で数字は比率(%)を表す、これによると養子/女として出されるのは2才迄に全体の50%が、大きくなっても4才ぐらい迄に出されることが判る、男子よりも女子の方が貰われていく確率が高い。男子は働き手として残ったのであろうか。
これらの事が行われる理由は、跡継ぎがない場合や、家が貧しく育てられない場合等が考えられる。



 養子・養女の件数を元号別に表したのが図30で、表示されている内容は、元号、件数、比率(%)の順に列んで表している。江戸時代に何度となく発生した飢饉の影響について見ると、天保時代の件数が1番多いが、飢饉が発生した前後の「寺請け証文」はばらばらで纏まっておらず影響はないと思える。
次に嘉永時代の件数が多い、特に嘉永2年と4年の2年間に合計7件の養子/女の「寺請け証文」が発行されている、此の時代には飢饉が発生したと言う事実は確認出来ていない、原因については不明である。
他の年代に纏まって「寺請け証文」が発行された経緯はない、試料数が少ない為、正確な判断はできないが、これらのことを考えると飢饉の影響により養子/女の「寺請け証文」が発行されたとは思えない。



纏め
 「寺請け証文」が利用された主な理由は、婚姻に関する事が殆どで、子供が貰われていく養子・養女は4才までが大部分を占め、2才以下が特に多く、その大半は女子である。飢饉により子供が貰われていく事も考えられるが、試料が少ないためデーターとして取り出せなかった。

「寺請け証文」について、色々と分析したが試料が満足行く数量でないため、正確さをかく部分もただあるが、方向性は示せたと考えている。今後の発表される文献に期待したい。これを以て「寺請け証文」の分析は終わる。



参考文献
 生駒市古文書調査報告書Ⅲ   生駒市教育委員会


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by kwsan | 2017-01-27 14:31 | 歴史 | Comments(0)
「寺請け証文」4 続き

 図16~27は、図5の件数の多い地域、奈良市、生駒市、枚方市、精華町、京田辺市の宗派別証文件数と宗派別寺院数を比較したものである。




図16・17は奈良市の場合。融通念仏宗寺院、浄土宗寺院、浄土真宗寺院、真宗寺院が殆どを占め特に融通念仏宗寺院は33%を占める、証文について同じ事が言える。




図18・19は生駒市の場合。融通念仏宗寺院は全体の70%であるが証文件数は全体の78%と1割ほど証文件数の比率が高くなっている。図8―1から判るように高山と傍示、上、鹿畑とは大きな街道が通っているため縁談等が特に多かった思われる。




図20・21は枚方市の場合。浄土真宗寺院は全体の53%であるが証文件数は70%と高くなっている。浄土真宗の人口が特に多い地域といえる。




図22・23は精華町の場合。此の地区も真宗寺院と浄土宗寺院のみで、浄土宗寺院が83%を占めるが、証文の浄土宗は半分になっている、前回述べたように高山町と精華町東畑はごく近い位置にあり住民の行き来が多く縁談等が頻繁に行われていたと考えられる。その為、東畑の専光寺だけで40%の証文が高山町に送られている。




図24・25は京田辺市の場合。京田辺は真宗と浄土宗以外の寺院は見当たらない、浄土宗の寺院が71%と多く証文件数も79%と多くなっている。




図26・27は京都市を示す、京都市は色々な宗派が混在しているが浄土真宗寺院と浄土宗寺院の2寺院で50%を占めるが真宗寺院がない。


纏め
 京田辺市、精華町は、真宗寺院、浄土宗寺院、に限られ、浄土真宗寺院はない、生駒市は融通念仏宗寺院が多くを占め、奈良市も宗派の違う寺院が多いが、真宗寺院、浄土宗寺院、浄土真宗寺院、融通念仏宗寺院が目立つ。
枚方市は浄土真宗寺院が圧倒的に多く、京都市は色々な宗派が混在している、しかしこの2地区は真宗寺院がは何故か見当たらない。


参考文献
 生駒市古文書調査報告書Ⅲ   生駒市教育委員会


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by kwsan | 2017-01-22 16:06 | 歴史 | Comments(0)
「寺請け証文」4

4.「寺請け証文」の作成寺院の宗派
 法楽寺に現存する、寺請け証文を作成した寺院は130余寺院に昇、それらの宗派を調べたのが図10である。宗派の多い順に並べると、浄土宗寺院、浄土真宗寺院、真宗寺院、融通念仏宗寺院で全体の7割を占める、その他とあるのは廃寺等で宗派が不明な寺院を示す。
 図11は、現存する証文の依頼主の宗派を示したものである、図10と同じく浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、真宗、で全体の8割を占める。
 証文の依頼主の件数や寺院数も浄土宗・浄土真宗の順に多く、次に、真宗と融通念仏宗と比較すると融通念仏寺院数が少ないが証文の件数はほぼ同等、これは融通念仏宗の人口が多いと考えられる。






 図12~15は、図10における寺院が、どの地域に分布しているかを調べたものである。


 図12は浄土宗寺院の分布を示す、京都市が全体の約4分の1を占める、次に京田辺、精華町、枚方市と続き、此の4市で全体の60%以上を占め、京都市・京都府南部及び北河内地方、特に大阪府東部の生駒山に面した地域に広く分布していることが判る。



 図13は浄土真宗寺院の分布を示す、特に高いのは枚方市で次に、大東市、東大阪市と続き、此の3市で全体の約50%を占め、全体的に見ると大阪府東部に集中し、北河内地方に多く分布している。



 図14は、真宗寺院の分布を示す、特に多いのは門真市・大東市で、次に京都市と続く、此の3市で全体の約60%を占める、真宗寺院は京都府南部から北河内にかけて多いことが判る、特別多いと言う地域はなく北河内や京都府南部にも広く分布している。



 図15は、融通念仏宗寺院の分布を示す、生駒市、奈良市とで全体の80%を占める。特に生駒市は全体の60%を占めおり、現在でも富雄川流域・生駒谷に集中して分布している。


纏め
浄土宗寺院・真宗寺院は京都市から京都府南部・北河内方面、特に生駒山の裾野に広がる地域に広く分布、浄土真宗寺院は高山町と接する(生駒市以外)高山町に近い地域に広く分布している、13図からも変わるように、枚方市は特に多い地域である。
融通念仏宗寺院は奈良県北部、特に生駒市に多く分布している。
 宗門壇那請合之掟に、不受不施派の日蓮宗に対しては幕府は「寺請け証文」の発行を禁止をしていたが、法楽寺文書の中に見える、文面等については未確認であるが、今後の調査の対象としたい。

参考文献
 生駒市古文書調査報告書Ⅲ   生駒市教育委員会




































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by kwsan | 2017-01-22 15:49 | 歴史 | Comments(0)
寺請け証文3

3.「寺請け証文」の発信地は何処か?


 法楽寺には200余件の「寺請け証文」が現存する、その発信地について顕彰する。



 図5のグラフは、発信地を地域別に現したもので、地元の生駒市が41件と一番多く、全体の約5分の1を占める、(但し、高山町から送り出された件数も含む)、次に枚方市、京田辺市、精華町、京都市、奈良市、と続く、特に枚方市、京田辺市は村切りなどがあり、合併を重ね地域が広くなったので、件数も多い。
 遠くは岐阜県(農州関ヶ原の宿)・石川県(能州川嶋村)・兵庫県加古川市(播州加古郡別符村)等が見られる。これらの地域と高山町(和州添下郡高山村)とはどのような接点があったのだろう。今では車で数時間の距離であるが、その当時は、道路もなく、道中の危険もあり、多くの日数を経てやってきたであろう。これらの3件は全て縁談で石川県が男性、他は女性である。これらの末柄が見つかれば先祖の話を聞いてみたいものだ。


 図6は、発信地を府県別に表したもので、大阪府が全体の5分の2を占めている。奈良県、京都府は、ほぼ同率、大阪府東部が多いのは高山町に接する面積が広く、接続される街道(清滝街道、群山街道、磐船街道等)も多く庶民の交流が盛んであったと考えられる。


 図7は、図6から大阪府のみを取りだして、大阪府の地域を比率で表したものである。
 大阪府の中では枚方市が4分の1を占めている、次に門真市、大東市、交野市、四条畷市と続く。
枚方市、交野市はカイガケ道や群山道を、門真市、大東市、四条畷市等は清滝峠道を、経て高山町への行き来が盛んだったと思われる。


 図8は、図6から奈良県を取りだし、奈良県の地域を比率で表したもので、生駒市が半分以上を占めている、次に奈良市、郡山市と続く、奈良市との交通は一条街道を通っての行き来が盛んだった。
奈良市(南都)へは奈良時代の古くからの接点がある、地元の豪族鷹山氏は奈良市の窪之庄との繫がりもあり、それらの影響もあって比率も高くなっていると考えられる。郡山については群山道を通ったと思われるが古くからの接点は見つけにくい。


 図8―1は図8の生駒市の地域を表す。これによると、富雄川沿いの谷である上村や傍示村の比率が高く、生駒谷の比率は少ない、鹿畑村や南田原村は富雄川沿いの谷ではないが、高山村に接しているので比率も高い。グラフの中で、高山村とあるのは、高山村から出ていった比率である、図8-2にその内容を示す。


 図8-2の件数(9件)は控えとして現存しているもので、資料としては少なく正確とは言えないが、高山村から出て行った地域は、主に東西に別れ、南北には見当たらない。


図9は、図6から京都府を取りだし、京都府を地域別に表したものである。
京田辺市、京都市、精華町は同じ比率である、精華町との行き来は今も続いており、図8―2からも判るように東畑と高山町との縁談は特に多い。

纏め
全般に送られてくる地域は山間部が多く、特に枚方市、京田辺市、交野市、精華町等がそれに当たる。
それらの地域は、働く田畑が限定され、また開墾する土地も少なく、分家しても生活するための田地は、確保できなかった、そのため、生活するには、生まれた地域から出ていくしか方法がなかったと考えられる。出て行くにも遠くへは行けないので、隣接する地が、選ばれたと考えられる。



参考文献
生駒市古文書調査報告書1~4  生駒市教育委員会
生駒誌史            生駒市教育委員会




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by kwsan | 2017-01-18 20:53 | 歴史 | Comments(0)