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自然と歴史
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自然の中に歴史がある

by kwsan
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黒添池、安明寺池、城の茶屋方面の散策

 平成29年6月16日、快晴に恵まれ、最高の散策日になった。
参加者は12名、出発は安明寺池からである。池の歴史については文献が乏しく戦後頃の状態の話しで終わる。
 水量は今よりも多く、水深については随分と深かった記憶がある、水は底まで澄み切って神秘に感じた。今は昔の面影全くない。
池と平行した道は広く軽四が通っているのか轍が残る、この道を奥に進むと獅子が丘住宅地に行くことが出来、そこから奥へ進むと大阪府の府民の森にから「カイガケ道」に繫がる。江戸時代には多くの人が通ったと古文書などに残る。

 池の名に寺の名が付いているのは、この付近に安明寺というお寺が存在したためであろう。明和5年の文書には、安明寺の明示があるが、どうもこの年代には安明寺跡を示しているのだろう、現在まで安明寺に関する文書は発見されていない。
 池の周辺は自然が残り珍しい昆虫や植物が見る事が出来る。
昆虫ではムカシヤンマ、大きさはオニヤンマぐらいで古代から進化していない、飛翔は幼稚で止まると羽根は閉じず、獲物を飛翔中に捕獲する現場に遭遇した事がある、成虫になるまで3年ほどかかる。

 植物では「ギンラン」「キンラン」などの植物も見られる、これらの植物は菌根菌を栄養源として生育している多年草、これらはいずれも絶滅危惧種に指定されている。

 古道、大谷道には「墓ノ谷」なる小字がある、現在は工場が数社営業している、江戸時代には数件の人家があったことが古文書から判明しているが、その末柄については不明である。現在、大谷道の一部は高山を通り抜ける道路があり、車の往来が切れ間のないほど通る。

 黒添池の樋は今はハンドル操作で開閉するが、昔は直径10cm程の棒が抜き差しすることにより操作していた。
 樋から流失する水は2方向に分離され水田に利用されている。
今は大きな問題とならないが、水田の多かった江戸時代には、左右同量の水量に分けられる仕組みが施されていた。
 水路の中央付近に三角形の島を作り頂点に向かって水を流すと二方向に水は流れる。三角形の底辺の角度を何度にするかは水路の幅との関係もあるが、正三角形が多いようである。こんな方法で水のトラブルを防いでいた、先人の苦労が偲ばれる


林の中を10分ほど進と棚田の田園に出る、此所が「城の茶屋」という小字である。昔この付近を通る旅人が休憩する茶屋があったと地元では言っている、「城の茶屋」の小字が文献に現れるのは文化文政の時代でそんなに古くはない。


 城の茶屋から東に広がる小字「美ノ渕」に「ギオマン」という地名が残っている。此所には吟右衛門なる人物が住んでいたと伝承され、先祖は京田辺から此所に作男にやって来てそのまま住み着いたとも言われている、その末柄は地元にいないが今も健在で生駒市内に住んでいる。

 此所を通り抜け急な坂道を下ると突き当たりに向露寺の墓地に出る。向露寺は元禄2年2月に達磨寺の珠岩和尚が開山、目的は本願寺山墓、円楽寺山墓を一ヶ所に集め、火葬を土葬に改葬、が目的と言われている。お堂は元禄8年傍示、向露寺原から移転と伝えられている。
 墓地の一部は「太田勘右衛門」なる人物が寄附したと言われており此所に眠る、末柄は絶えたと言われ不明。
 墓地広場には「迎え地蔵(阿弥陀如来)があり銘は台座に「宝暦七丁丑天 六月建立 之施主小森畑 有山道受」とある、棺台、前机などがあるが今は使われていない。
 他に6地蔵尊、石仏地蔵尊なども見られる、本堂横には延命観音が祀られている。昭和の終わり頃、黒添池北の酒池岩場に祀られていたのを此所に移転した。新しい観音さんである。


 暫く南進すると小字「大廣」入口の前を通り本願寺に着く。此所は高台になっており遠くまで見渡せるが南や東は大木が茂り見えない。小字「大廣」は奥の方まで見渡せる。この入口には記念碑があり昭和9年に道路拡張工事したと銘がある。小字「大廣」の奥には「大八丁池」があり、満水となると水面が青々とその深さが知れる。その奥に戦後、滝行場が造られた、西光寺住職が主体と成り月1回滝行を行ったと言われている、滝行については詳しく知る人は亡くなり、詳細はわからないが行場の跡は今も残る。

 本願寺の由緒は不詳であるが、本尊は石仏地蔵座像で銘から1505年の作と判明している。自然石六字名号碑(1610)、六字名号板碑(1632)、自然石 富士講碑(1736)、十三仏、庚申碑などが境内に列ぶ。お堂裏側には本願寺住職の石碑が7基立っている。境内には天神社の祠が有り、安永の時代に造られたと文書(明治5年)に記されており、本願寺什物(1797)には、お堂と菅原道真公の像が記載されている。

 富雄川(九頭神川)を北進して九頭神公民館に着く、此所に「愛宕山」「九頭神」の銘がある石燈籠がある、この燈籠は元々その場から50m程先に三叉路が有りその北東角にあったが道路工事のため此所に移動した。明治の初め頃には迄電気などはなかった、その頃は川筋の集落の住人が毎日交替で油を注ぎ火を点したと「有源」に記載されている。

この川筋には3ヶ所の水車が昭和43年頃まで動いていた。しかし米搗きなどの機械が発達して、川下から順番に使用されなくなり消えていった。

 ここから城の茶屋橋を渡り元来た黒添池に戻り帰宅、歩数にして1万歩ほど、散策時間は休憩時間が長いので2時間半費やした、休憩せず歩いて70分のコースである。


by kwsan | 2017-06-15 21:39 | 歴史