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富雄川 1
2016年 03月 11日
高山地区内を流れる、富雄川は、一級河川として国の管理下にあり、源は高山溜池となっている。昔は「瀧 川」(たきがわ)と「美ノ原川」の合流地点から下流を「富の小川」(富雄川を意味する)と呼ばれいた。 石橋の向谷橋 瀧川(九頭神川) 美ノ原川の源は京田辺の高船、打田との境界に聳える山が分水嶺と考えられ、途中、色々な谷の流れと合流して美ノ原川となって富雄川に合流している。 富雄川について、法楽寺縁起に「泉州堺北へ落ちる大和川龍田川富の小川皆一流三川の名所にて此の三つの川水上みなり法楽寺より30町北二丈餘の瀧ありこれ川の源初なり・・・」伝々。 向谷橋は石橋で水害には強いが、川添の道路は、豪雨等の、影響を、受けやすく度々通行に支障が出た、その為、街道は新しく建設され、今の市道7号線になったと伝えられている。又、川添の家並みの一部は「坊田」から、地震の影響で井戸が涸れ、水に不自由なため移住した、その後発展し今の家並みになったと云えられている。 「坊田」には空井戸が現在も数基残っており、集落があったことを物語っている、ただ集落が何時頃発生したのかは定かではない。 江戸時代の「坊田」は、本願寺の寺領であった、それを示す史料として「譲状之事」(正徳6年1716)が法楽寺に保存されている。寺領は状の内容から山林及び田地であって集落は確認出来ない。
天保絵図及び明治10年頃の調査資料によると、大北地区の富雄川に架かる橋は、高谷橋、大門橋などが記載されている。 高谷橋は、元々市道7号線より、はるか下の川面に架けられ、 石柱を、並べたものであった。橋は昭和40年頃迄、原型をとどめていたが、市道65号線建設時に撤去され、その一部が残されている。 大正から昭和になると、車時代が訪れ、アーチ形の橋が、今架かっている辺りに建設された。鹿畑地区の住人の設計と聞く、橋は川崎橋と呼ばれ、橋の名の由来は不詳。 市道65号線建設の折、アーチ形の橋では狭すぎるため、取り毀され現在の橋となる。 川崎橋 高谷橋の残石 大門橋は高山八幡宮前に架かっている橋で、石段を川面辺りまで降りたところにあった。市道7号線の建設時に石段は撤去されたが、現在、その一部は、大門橋の南側の石段に再現されている。この橋が架けられた理由として考えられるのは、富雄川より西の地域人達が八幡宮にお参りするのに遠回りしなければならない、これを解消するためと考えられる。現在、大門橋が取り外された、後高山宮橋に名前は変わっている 大門橋(現 高山宮橋) 八幡宮からこの橋を渡り西に進むと「和田」、「前田」を通る旧道に入る。大門橋から西に続く道を境にして墓地の場所が決められているが、前田川を境にして墓地を定めているとも聞く。この理由は「昔、死者を葬るとき、八幡宮の前を葬列が横断することは不浄な事と思われた」と言われている。
法楽寺前の橋は天保絵図及び明治10年頃の調査資料では確認出来ない。私見であるが小学校が、今の所に明治44年に八幡宮境内から移転した。建設はその頃ではないだろうか?。北小前の歩道橋は市道7号線開通後の建設。 法楽寺前に架かる橋 久保地区の出店橋は古く天保時代には既に使用されていた、ブログ「古道(中村周辺)」で紹介した通り、この橋は中村地区へ入り口でもあり、高山地区の交通の要衝に架かる橋でもあった。出店橋付近には、集落的なものは無く、数件の人家のみであったと云われている。 出店橋 「出店」と言う地名は、辞書によると、「店」は「見世」とも表され、人が集まる所に棚を置いて品物を売る所と説明されている、又は出見瀬と表すと浅瀬で流れが速い川辺が見える所に出られる場所、とも取れる。出店は古き時代より交通の要衝でもあり前者の意味であろう。 天保絵図には、久保地区内に流れる、中村川があり、有井山家文書に砂防工事の資料が残され、大雨などによる災害が多かったことを物語っている。その源は「ドキツカ」用水池付近の精華町東畑との境界に連なる峯が分水嶺と考えられ、途中、幾つかの谷の流れと合流して出店橋付近で富雄川に合流する。 正面が出店橋で右の開口部が中村川 出店橋から中村川を越え山手に登っていくと北面の斜面に集落が続く、この一帯を「坊向(ボノカイ)」(坊の向村)と云われ、明暦元年(1655)頃には、既に独立した集落があった事が、法楽寺文書「高帳」から読み取れる。斜面を登り詰めると無縁寺とその墓地がある。 富雄川と中村川の合流付近で「富士垢離」なる風習が行われていたと云う、それは「維新ノ頃迄行ハレタル敬神的風習ニシテ毎年8月中5日又ハ一週日ノ間篭り所ニ起臥シテ家ニ帰ラズ。身ニハ白衣ヲ着ケテ精進潔斉シ水辺ニ七五三縄を張リ(砂州ヲ穿チ屈曲シテ水ヲ導キタリト)付近ノ高所ニ弊束ヲ立テ、下リテハ水垢離ヲ取り、上リテハ弊束ヲ拝シ南無神変大権現ト唱フ・・・・出店橋ノ下ハ即チ其垢離ノ場所ナリ・・・」伝々、と生駒市誌(北倭郷土資料)に記載され、又橋の下には浅間塚という高塚も作られていたと云われている。江戸時代には高山地区の川の各所で、この風習が行われていたとも、記載されている。 出店橋付近には、江戸時代から明治に架けて、切支丹を取り締まる為の「高札」が立てられていたと、有井山家文書に残されている。出店橋付近は、交通の要衝でもあり、色々な人が行き交うため、人目に付きやすかったのであろう。 高山地区には寺請証文が300余通残されている、その内75%程が法楽寺に保存され、残りは傍示地区の個人宅で保存されている。その他庄田、大北、久保の各地区にも数件確認されている。 寺請証文とは高山地区内に婚姻、丁稚、養子(女)等で移住する場合、戸籍が切支丹で無いという証明で、檀家寺が作成した「証文」である。遠くは岐阜県や石川県からの「証文」も見つかっている。 天保絵図には「ミノ口」から北中の敷地内を通り流れる川が描かれているが、確認出来ない。今後の調査に待つ。 出店橋から50m程下流に、斜めに架かる橋は国道163号線から、北方面への迂回路として建設された道路に架かる橋である、道路は土地買収にかかる問題で未完成(平成28年3月現在)のため使用されていない。 未完成の道路に架かる 参考資料 生駒市誌、生駒市古文書調査報告書、法楽寺文書 大和国町村誌集巻2、北倭村誌、有井山家文書、 ふるさと生駒の地名と私 藤本寅雄著(非売品) 和州添下郡高山村惣絵図、生駒北小学校創立百十周年記念誌、
by kwsan
| 2016-03-11 21:05
| 歴史
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