自然と歴史
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古 道(中村地区周辺)


生駒民俗会発行の「生駒の古道」高山・伊勢街道を歩きその土地の歴史を振り返る。
 

高谷集落との境界を越え中村集落に入る。表通りに出るまで人家と田んぼが続く緩やかな下り坂である。

 「中村」集落の字名は、法楽寺文書「高帳」(明暦1年 1655)に記載されており、当時、中村集落として独立していたと考えられる。
また、法楽寺文書 文化四年(1807)勧進帳には「中ノ」「出谷」「木挽小谷」「高見」「風呂谷」「芦谷」「小谷」「中」「井屋本」「長谷」「野神」「向井」の小集落が存在しそれらの上に「中村」があった。

「生駒の古道」には「中村は南の鹿畑に続く、いわゆる「清水道」と「北田原、東畑」を結ぶ東西道が交差する位置にあります。嘉永元年(1848)の絵図「大和細見図」にも中継として「中村」の名が記され、かって高山交通の要衝だったことが判る」と紹介されています。天保14年の絵図にも高谷から中村を通り鹿畑に通じる道があったことが記載しており、「中村」の集落は古い時代から独立し高山の重要な中継地であったことが窺える。


集落に入る前に寄り道して中村の二月堂へ向かう。
此所は高谷集落との境界で、こんもりした森の中の高台に南向きでお堂は立っている、高台からは眼下に中村集落、田畑が見える。木々が伐採されているのでお堂の周辺は明るい。
 二月堂の祭祀は観音厨子である。地面に今は使われなくなった供台?と思われる焼き物や、灯明を点したと思われる火袋が落ち葉に埋もれている、供台?には「奉納、二月堂 明治31年1月吉日 26才男」と書かれ奉納者の名が最後に記載されている。火袋には「奉納 丹後田辺」とあり最後に文字が見えるが読めない。地元の方であろうかお堂の前には寄進者の石碑があり、表に「献燈」と有り金額と名前が刻まれている、裏には「昭和51年8月吉日」と刻まれている。
 現在、二月堂遥拝所は、集落(80戸)で祀られている、祭祀の世話役は輪番制で、法要は無縁寺の僧侶によって、8月17日の夜に行われる。当初は青年会の行事であったが、現在は集落(垣内)の行事に移ってしまった、当時は青年達の一大行事だった思われる。
 戦前には流行病、旱魃等に苦しんだとき,二月堂に籠もって護摩を焚いて祈願した、戦時中には家族の無事を祈ってお百度を踏んだと云えられている。

 この集落には「二月堂観世音菩薩遥拝所設置由緒書・中村青年会」と云う古文書が保存されている。

        峯の二月堂観世音菩薩遥拝所ノ由緒書
仰東大寺二月堂観世音菩薩遥拝所則字中村垣内ノ峯ト謂ヘル所ニ安置ナシタルハ元来同村九平氏ノ開基創立ニシテ・・・・同村ニ於テ以前少年ノ輩友連中ト名称シテ組織シ来ルニ・・・・青年会ト改称シ組織シ、前書ノ二月堂ヲ青年会へ元創立主ヨリ譲請、左ノ世話人ニ依頼シ同村ノ協賛ヲ経尚基ニ寄附ヲ受納シ・・・・就テハ諸附属献具ヲ新調シテ、爾来ハ青年会ヨリ守護スル事ニ確定シ、爰ニ紀念ノ為一書シ、保証候事
      明治参拾壱年(1891)壹月廿六日
                  高山ノ内中村
この後に世話人が7名が記載され,当時の村長の名も見える。

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中村の二月堂


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                 供 台?  
                            
                    
二月堂の西に阿弥陀寺がある。寺の沿革によると
 「今の阿弥陀寺の住所地に数百年前から峯堂(むねんど)と云う一草庵があった。この草庵を寛永年間(1624~1643)に信誉上人が増改築され佐太の来迎寺の末寺として開山された。以来十数代を経て第十九世来誉上人が寛政八年(1796)に本堂、客殿を建立され、鐘楼堂は文化二年(1805)に、表門は文化八年(1811)に、第二十世願譽上人が建立されて寺院としての外観だけを備えられた。その後第二十五世の香厳上人が寺域を広め、仏具、荘厳も整えられ境内の整備もされた」。その後、寺で起きた色々な出来事が記され、現在に至ると纏められている。
   
   名称    宗教法人 峯堂山阿弥陀寺
   宗派    浄土宗 
   本尊    阿弥陀如来座像
   檀徒    参百七拾戸  信徒 壱拾八戸
   境内    国有地  四百八十六坪



 昭和20年戦争激化のおり、空襲警報が発せられると、小学校が阿弥陀寺の下の方にあった為、小学生は阿弥陀寺の坂を駆け上り阿弥陀寺境内に逃げ込む、境内一帯大木に囲まれ薄暗く上空からは見えなかった、各班ごとに集まり、艦載機が通り過ぎるのを待って、それぞれ年長者と一緒に帰宅する。これが日課であったと古老から教わる。


阿弥陀寺の北側には高山八幡宮、富雄川の西に法楽寺がある、これらについては別の項で説明する。


二月堂のお堂から南に小高い丘が見える、そこには無縁寺墓地があり、大北地区の一部、久保地区、宮方地区の共同墓地である。
墓地の由来は、有井山家文書の「和州添下郡高山村御墓所由来」に記載されている。

       尾谷峯墓所(無縁寺墓地)由緒
 この墓地は昔山城の境にある大谷から寛永15年(1638)3月15日に和州高山郷の久保村尾谷(オダン)の峯に墓移しが行われた。
開墓(供養)は上の坊法楽寺の大阿闍梨特盛であった。

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 無縁寺についての詳しい資料は無いが色々な文献を総合す              
 ると次の様になる。 此所には切支丹の石碑があると言われているが未確認。 
  由緒 不詳
  本寺 阿弥陀寺   宗派 浄土宗
  本尊 阿弥陀如来木座像  36cm(一尺二寸) 金箔置
  信徒 150戸
  住所 高山町小字久保
  喚鐘 高さ47.3cm直径27.6cm
     池の間刻銘 和州高山村無縁寺什物 施主惣檀家中
          正空智代 安永7戊10月佛成日
    駒の爪刻銘 京大佛住西村上総大掾宗春作
この喚鐘は高山村無縁寺の什物で施主は村の檀家衆、正空智住職の時代に造られた、安永7年(1778)10月佛成。作者は京都の宗春である。
(喚鐘、半鐘、梵鐘の違いは一般的に直径で分類される)

無縁寺から東側には切池(きりけ)の集落が見える。
切池集落には行者堂なるお堂がある、高田照世氏著書によると、「切池垣内の行者堂には、高さ1m奥行き50cm程の自然石沈刻浮彫行者像が鎮座し、表に「元文3年(1738)戊午7月吉日 願主正宝院、切池俗名庄兵衛」裏に「奉造立 大峰山上三三度 為二世安楽」の銘がある。また、棟札には「天下泰平 大和高山 奉新建神変大菩薩堂字村内安全也 五穀豊就 金丸講中敬白」「我此土安穏天人常充満 其一切徳也 維持昭和31年2月26日厳修」と書かれている。
 行者像は元文3年7月、切池の庄兵衛が、大峰山上に33度参詣した記念に建立した、当時は、大峰三上参詣が流行していた事が窺える。また、行者堂は昭和31年に金丸講(キンマルコウ)が、村内安全、五穀豊穣を祈願し建立した。現在、切池集落では金丸講の活動は行われていない。


また、切池集落には電子技術発展のため昭和40年頃に出来た、電波測定所がある、此所は電気製品から発する不要な電磁波(電波)を法律上許される範囲にあるかどうか測定,判定し適合すれば証明書を発行する社団法人である。高山地区では余り知られていない。


 この建物から少し南に切池の吉兵衛さんという人が住んでいた。現在、子孫は関東圏へ移住したと聞く。 大正四年北倭郷土誌資料によると、

 吉兵衛ハ政吉ノ先代ニシテ、幕府ノ未造ヨリ維新ノ初期ニ至ル迄、旗本堀田家ノ庄屋ヲ努メ其ノ大庄屋各タリシヲ以テ、勢力権力一時隆々タルモノアリキ。俗ニ切吉ト称スルハ、其ノ居宅ガ切池ニ在ルヲ以テナリ。
    中略 
 何時ノ頃ヨリ薩摩ノ出入ヲ努メテ同藩ノ重ンスル所トナリ、彼ノ島津家ガ率先シテ始メテ堺大浜ニ洋式製糸場ヲ創立スルヤ、吉兵衛ハ挙ゲラレテ同地青木久三郎(大醤油屋)大徳(川尻筋回船問屋)ト倶ニ之ガ監督ヲ托セラレタリ。又旧主堀田主計ガ維新ノ際朝廷ニ帰順シテ少額乍ラモ家禄ヲ下賜セラレ、先祖ノ祀ヲ絶タザルヲ得シモ、実ニ吉兵衛ガ薩摩ニ対スル縁故ニ困りテ斡旋大ニ努ムル所アリタルニ頼レり。又幕府時代ニ在リテ吉兵衛ガ其ノ名義ヲ以テ堀田家ノ金札ヲ発行シ、付近一帯ニ信用ヲ得テ弘ク通用シタリ。吉兵衛又事業経営材幹ニ冨ミ、維新ノ初、率先シテ牧牛養豚ノ事ニ従ヒ、又若州(注1)ヨリ金扱(農具)及ビ鰤ヲ取寄セテ売弘メ、又米買ヒ山買イ等手出シ、且ツ京都西陣織物ニモ関係シ、其間失敗ナキニシモ非ザリシガ成功セシコトモ亦尠ナラザリシトイフ。
    中略 
金札発行ノ際ニ於ケル警護ニハ、専ラ村ノ若者ヲ徴収シテ之ニアタラシメタトイフ。
以上のように記載されている。

 生駒市の古文書調査の折、小判数枚が発見され生駒市教育委員会が保存して居ると聞く、又、薩摩藩との付き合いも、広く行われていたことが当家の文書等で判明している。又、吉兵衛が通るとき通行人は道に平伏して見送ったと地元では伝承されている。
   注1 若狭国はかって日本の地方行政区分だった令制国の一つ、
      現在の兵庫県佐用郡佐用町若州

 切池集落から市道72号線に出て京都方向、数100m先の小高い丘の上に延命地蔵がある、元は丘の麓にあったと云われている。
延命地蔵は中村集落(80戸)で祀られており、江戸期の地蔵菩薩像四体と貞享年間(1684~1688)の六字名号板碑を祭祀している。毎年7月23日の夜七時から行われる祭りには全戸がお参りして、無縁寺の僧侶と読経する。


 切池集落から少し離れた場所に「曽我のモリサン」がある。祭神は「曽我大明神」で切池集落の24戸で祀られ、9月23日道作りの後に祭りが行われる、昆布、するめ、粟、菓子、酒等を供え、輪番制の神主が祭祀を受け持ち、祝詞を上げ、その後、直会が行われる。神主には元治元年(1864)墨書銘のある御膳箱と独鈷鈴が受け継がれている。
 昔の道作りは、終了が夕方になったため祭りは夜にり、各自料理と蝋燭を持ち寄り、夜遅くまで酒宴が続いた。
 最近は道路状況も良くなり道作りは昼までには終了する。そのため祀りは午後からとなる。
 曽我のモリサンは久保地区(現在の自治区域)の外れの山中に存在し、此所を越えると大谷墓に通じる。尾谷に墓移しが行われるまでは此所に墓地があった。
 昔、社が災害に合い、別の場所に移動されたが、社の向きが悪く災難が発生、そのため社は切池集落を向く位置に修正、災難は無くなったという伝承がある。
以上は「祖霊と精霊の祭場 高田照世著」より引用。

 「道作り」高山の各地区(垣内又は集落)に於いて行われる行事である、今の様に道路が整備されていなかった頃、道が崩れ狭くなったり、穴が空いたり、で通りにくくなった部分の補修工事を集落総出で行う行事である。
日時は収穫前の9月頃から10月頃と決まっていた。

 その他に「かわぎり」という行事もある、呼び方は地区により違うかも知れないが、川に土砂、ゴミ、雑草などにより川幅が狭くなって、大水による災害防止を目的に行われる。(川を切り取ると云う意味で狭くなった部分を削り元の広さに戻す作業)作業は台風の季節前に行われるのが常である。
 現在、「道作り」「かわぎり」は高齢化、護岸のコンクリ-ト化、道路の舗装化のため一部の地区のみ行われている。


 久保地区(現在の自治区域)に「人木谷」という地名がある、昔処刑場ががあった地で「人斬谷」と呼ばれていた、何時の時代か判らないが、この字では不都合が生じるので「人木谷」と呼ばれる様になったと伝承されている。
生駒市誌に記載されている高山町小字地名図には「人木谷」なる地名は見当たらない。


参考文献 
生駒の古道、生駒市誌、法楽寺文書、有井山文書
祖霊と聖霊の祭場 高田照世著、北倭村風俗誌調、
生駒市古文書調査報告書、北倭村誌、
北倭郷土誌資料、高山文化研究会資料。


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by kwsan | 2016-02-10 21:05 | 歴史 | Comments(0)